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2022

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打順  【悲報】水原一平氏解雇。

 ギャンブルの是非については色々な議論があるし、国や地域がよっては合法化されていたりもする。日本も、建前上は禁止であるが、競馬・競輪・宝くじ等々の公営ギャンブルは認可されているし、麻雀、賭けゴルフ等々はお目こぼし状態である。また、パチンコなんて、あからさまなギャンブルなのに、遊技だ景品だと、お茶を濁している。

 まあまあ、それらについてはどうでもいい。私は興味ないし、関心のある人達で解決すればよい問題だと思う。

 ただ、プロスポーツの場合はマズイでしょう。倫理的道徳的問題はともかくとして、プロスポーツという興業の根幹にかかわる問題である。故に過去の違反者達は厳しく罰せられてきた。池永やピート・ローズはキャリアを失ったし、シューレス・ジョーは、その象徴である。最近も巨人の選手が永久追放されてなかったっけ。

 かくして、日米問わず、というか世界中のプロスポーツ選手にとって、ギャンブルは厳禁、御法度である。競馬や競輪なども、禁止まではされていないであろうが、「なるべく、やるな」「やってても、公にするな」とされているであろう。実際、過去のプロ野球選手で、「競馬・競輪が趣味」と発言している人は聞いた事がない。野茂が「競馬が好き」と言っていたくらいである。まあ、隠れて興じていた人はいただろうけど。

 ただし、今回は通訳である。「プロスポーツ関係者と云えるのか」というと、微妙なところではあろう。地位的には、代理人や個人トレーナーと同じ扱いであろうから、厳密には「チームの一員」とは云えないかもしれない。もっとも、雇い主は「チーム」であろうから、そういった意味では「チームの一員」と云えるかもしれない。用具係やチーム付きトレーナーと同じ扱いになるのであろう。ただ、彼等が「プロスポーツ関係者と云えるのか」というと、微妙なところではあろう。直接的に勝敗にかかわっている訳ではないし。

 また、一部報道によると、大谷が一平ちゃんの借金を肩代わりしていたそうであるが、これまた微妙なところであろう。単純に「違法」かどうかも、法律に詳しくない私には、よく分からんし。また、それが「プロスポーツマンとして」重大な職務違反になるのかというと、これまた微妙なところであろう。

 もっとも、大谷のキャリアに関しては、良からぬ組織でも動かぬ限り、ドジャースと代理人がありとあらゆる策を講じて、それこそ超法規的措置まで講じて、保護するであろうから、その点に関しては、あまり心配していない。これで大谷がキャリアを失うというのなら、それこそ「良からぬ組織」が動いたという事であろう。まあ、無くは無いけど。とくにアメリカの場合。

 しかしまあ、いずれにせよ、これで大谷のパーフェクト神話は崩壊しましたな。思わぬところに落とし穴があるものよのお。

 池永の名前が出たので、ついでに、それについても。

 池永は、ああいう不幸な形で球界を去る事になった訳であるが、でも、ピッチャーが八百長に関与するって、なかなか難しいよね。ってか、不可能だよね。

 これが野手やバッターだったら、エラーしたり三振したり、自由に出来る、すなわち、八百長できると思うけど、ピッチャーが、ホームランを打たれる、ヒットを打たれるって、なかなか自由にならんよね。ホームラン競争なんていうのは、その分かり易すぎる実例であろう。例の、V9阻止の星野の投球とかもね。

 ただ、池永の場合は、自由に打たれる、すなわち八百長が出来るだけの技量と洞察力を備えていたと思われていたのであろう。池永なら、それを可能にするだけの技術と頭脳があると。

 まあ、八百長が出来そうなピッチャーといったら、他には、キャリア後期の江夏ぐらいしか、思いつかん。池永は、それを若い頃から出来たというのだから、恐るべきピッチャーだったという事であろう。「黒い霧事件がなかったら」、これは云わない約束か。


 一平君と池永問題はともかくとして、今回は鳥山明について書こうと思う。

 もはや、「打順」とは何の関係もないのであるが、他に適当なカテゴリーもないし、「番外編」という事で許して下され。しかも、2回分に分けるかも。いつになったら、本題の「打順論」に。

 本当は、このようなコルツともペイサーズ(10年、書いてない。涙。)ともインディアンズともインディアナ州とも関係ない話題についてのカテゴリーは、それこそ10年くらい前から用意しており、「インディfromインディ」とタイトルも決まっていて、そこに書けばよいだけの話なのであるが、「インディfromインディ」の第1回目の記事は「野村克也」と決まっているので、そこは変更できないのであーる。←バカげたコダワリ。


 さて、鳥山明である。

 まあ、なんかスゴイことになってましたね。「死んだら、こうなる」というのは分かり切っていた事なので、そのこと自体に驚きはない。10年くらい早かった(涙)ので、そこはショッキングであったが、こういう事態、世界中が悲しむ、喪に服すという事態は、予想通りではある。

 でも、スゴかったね。およそ鳥山明とは関係なさそうな世界中のサッカークラブが張り切っていましたな。でも、何故か、お膝元の中日は無言、ないし無音。「ドラゴンズ」なのにね。今から思えば、チームロゴを作って貰っておけば、良かったよね。間違いなく、世界最高のチームロゴになったのだから。しかも、鳥山明なんてお気楽な人なんだから、「つくってちょ。」って頼めば、作ってくれたのに。お金にも凡そ困っていない人なんだから、謝礼も「プラモ100個」ぐらいで済んだのに。

 中日の地元スターとの相性の悪さというか、間の悪さは相変わらずであるが(織田信長にも豊臣秀吉にも徳川家康にも、逃げられたしね。)、それはともかくとして、今回の鳥山明の死は、世界史的な出来事だったと思う。

 というのも、一人の人間の死を世界中津々浦々の人々が悲しむのは、おそらく、今回が史上初であるからだ。

 こういう風に、一人の人間の死を世界中の人々が悲しむためには、当然の事ながら、報道機器や報道機関が発達していなければならない。故に、19世紀以前だと、どんだけの有名人が死んでも、世界的なニュース、世界的な訃報にはならない。アレキサンダー大王でも、キリストでも、諸葛孔明でも、蘇東坡でも、ニュートンでも、ゲーテでも、その死は世界的なニュースには、ならなかったであろう。とりわけ、日本なんていうのは、永らく世界史と世界地図の外にいた国であるから、彼らの死とは、ほとんど没交渉であったろう。

 20世紀にはいると、報道機器や報道機関の発達により、その死が世界的なニュースになる人も、ちらほら現れる。トルストイやアインシュタイン、ピカソといった人たちだ。日本人だと、乃木希典とか三島由紀夫なども、その死が世界中に報道された人々である。

 ただまあ、これらの人たちは、確かに「立派な人」ではあるけれども、その仕事を世界中の人が享受した、あるいは利用した訳ではない。トルストイなどは、その仕事が、世界中の人々に、比較的享受された人であろうが、それでも限定的であろう。ほとんどの人、あるいは門外漢の人達は、「知り」はしただろうけど、「悲しみ」はしなかったろう。

 また、その後、20世紀後半に入ると、スポーツマンや歌手、すなわち、大衆娯楽の主役の人々の死が、全世界に報道される事となる。その最も規模の大きいのは、ジョン・レノン、アイルトン・セナ、マイケル・ジャクソンの三者であろう。確かに、彼らの死は、その悲劇的な死、あるいは怪死という事もあって、世界中の人々が悲しんだ。

 ただ、ここで、今私は「世界中」と書いたけれども、本当に、字義通り「世界中」だったかというと、怪しいものがある。基本的には「欧米中心」であろう。あるいは、そこに「日本」を含めた所謂「先進国」中心の世界であったろう。アフリカや東南アジアの人々は、トルストイやピカソ、三島の死を知っていたか。

 また、ジョン・レノンやマイケル・ジャクソンの音楽は、おそらく「悪魔の音楽」として、旧共産圏やイスラム圏では自由に享受できなかったろう。

 また、セナの死は、F1というスポーツの性格上、やはり、その死を悲しむ人々は限定的だったと思われる。さすがに、「知って」はいても、「悲しむ」に至ったろうか。

 ところが、今回の「鳥山明の死」は、文字通り字義通り「世界中」の人々が、その死を悼んだ。ユーラシア大陸、南北アメリカ両大陸は無論の事、アフリカ大陸からも、その死を悲しむ声が聞こえた。旧共産圏やイスラーム諸国からもである。ロシアからは無かったかな。いろんな意味で。

 世界中の、ある年齢から以下の人たちのほぼ全てが、その死を悲しんだのが、今回の「鳥山明の死」だったといえよう。逆に、ある年齢より上の人たちには、異様に思えた光景だと思う。世界中でクビを捻っているんじゃないかな。そんなにエライ人なの?。

 経済の国際化が完了し、文化の国際化が異常なスピードで進んでいる現在の様相からして(政治の国際化は、まだまだかな。)、今後も、こういう人は現れるだろうけれど、その第1号が、まさかの日本人、しかもマンガ家、しかも児童マンガ家。それも、バトルもの。

 まあ、少年時代という、人種、民族を問わず(いや、例外もあるのかな。)、多くの人々にとって最も美しい時代の伴侶が「児童マンガ」であるのだから、この結果は当然と言えなくもないが、まあ、やっぱ、驚きだよねー。一人の日本人としてもね。しかも、連載終了が凡そ30年前、連載開始が凡そ40年前、アニメも同時期、いつまで読んでんだよって感じもなくはないけどね。。後述するが、鳥山明の代わり、鳥山明を継ぐ者は、なかなか現れないという事である。かつて、藤子不二雄、Aじゃなくて、Fの語った「現在、児童マンガ家は鳥山明さんしかいません。」というのは、こういう意味だったのね。

 そういえば、今まで、「世界で最も有名な架空の人物」はシャーロック・ホームズだったのだけれども、もしかしたら孫悟空に変わるかもね。まあまあ、これはこれで「本当の」孫悟空が別にいるのだけれど。

 あと、自画像が例のアレで良かったのかというのはある。私のような「アラレちゃん世代」には馴染み深いものだけど、「ドラゴンボール」のアニメしか知らない人たちには奇異に映ったのではないだろうか。実際、一部では「不気味」なんて声もあったし。

 自画像は、あの「ガスマスク」の他に、「サングラス」と「鳥の顔」と「狐(ひょっとこ?)のお面」の計4種類があったと思うのだけど、何故に、訃報の際に使う自画像が、よりによって「ガスマスク」。ガス自殺とかガス中毒で死んでいたら、シャレにならなかったよね。

 あと、この訃報で世界中に流された肖像写真が、何故に20代というのもある。「ドラゴンボール」どころか「Dr.スランプ」時代の写真だよ。

 晩年というか、若い頃を除いては、マスコミ嫌いだったので、最近の写真が無かったのかもしれないけれど、私にはちょっと面白かった。これはこれでアリだな、とは思った。

 「遺影」というと、多くは死の直前の写真が使われるけども、自分の全盛期の写真を使ってもいいよね。女の人なんか特に、70代80代の写真よりも、10代20代の頃の写真を使った方が、本人も参列者も喜ぶよね。まあ、5歳とか0歳の時の写真を使われても困るが。足の写真を遺影にしようとした人もいるけどさ。「顔の特権的地位が許せない」とか言っちゃって。

 あと、「アラレちゃん」世代の私としては、「『ドラゴンボール』『Dr.スランプ』の鳥山明」という言い方書き方もヤだよねえ。気になる。「『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』の鳥山明」だろうが〜〜〜〜。


 つう訳で、今現在、降って湧いたような「鳥山明論」が盛んであるので、ここはひとつ、私も参加してみようと思う。尻馬に乗ってみたい。

 「鳥山明」を語るにあたっては、色々な切り口があるだろうけど、まず、私が、第一に指摘したいのは、その人気、というか、異常な、あるいは異様な人気である。「世界中の人々が悲しんだ、その死」は、その象徴であろう。

 鳥山明は、長期連載は、その生涯で2作「Dr.スランプ」と「ドラゴンボール」のみである。そうして、その2作ともにヒット。それも、ただのヒットではなくて、メガヒット、スーパーメガヒットである。これは、おそらく、というか、現状間違いなく「鳥山明」ただ一人である。

 キャリアを通して売れ続けたマンガ家には、横山光輝やちばてつや、高橋留美子などがいるけれども、さすがに、すべてがすべて「メガヒット」ではない。まあ、勿論、「鉄人28号」とか「あしたのジョー」、「うる星やつら」のようなメガヒットもあるけれど、スマッシュヒット止まりの作品もある。

 また、しげの秀一も売れてない時期のないマンガ家であり、「バリバリ伝説」に「頭文字D」とメガヒット2作をものにしているけれど、2発2中という訳ではない。不発弾もあった。

 2発2中は鳥山明のみである。まあ、勿論、3作目を書いていたら、スベっていた可能性もなくはないけれど、それは埒のあかない空想である。

 そういう、謂わば「空前絶後」の売れ方をしたのが鳥山明であるが、唯一それに対抗できるというか、ちょっと面白い売れ方をしたのが、事実上「鳥山明唯一のライバル」といってよい「ゆでたまご」であろう。

 ゆでたまごは、小学生の時に書いていたマンガが、そのまま「マンガ雑誌」に連載され大ヒット、そうして、事実上、それしか書いていない(それ以外は、全部不発。)という、「空前絶後」、おそらく唯一のマンガ家だと思う。

 高校生や大学生の時に考えたストーリーやキャラクターが、大ヒット、代表作になるという事は、ままあるだろうけど、小学生の時に描いていたマンガ、「キン肉マン」を、生涯描き続けているのは、おそらく彼等だけだと思う。しかも、メインの読者は「小学生」。幸福な人生だと思う。

 序論はこれくらいにして、いよいよ本格的に「鳥山明論」に入っていこう。

 鳥山明といえば、まずは何と言っても「Dr.スランプ」である。

 これを初めて見た時の衝撃を当時の体験者が口々に語っているが、それは私にもある。以前にも、どこかで書いたかもしれないが、また書いておこう。

 それは病院の待合室だった。その病院は所謂「行きつけの病院」ではなく、「行きつけの病院」が休業か何かで、私と私の弟、私の母は、別の病院を訪れていた。しかも、風邪を患っているのは私の弟で、私の母がその付き添い、私はそれにくっついて行っただけである。故に、気楽な私は何とはなしに待合室のマンガ雑誌を手に取り、読んだ。その雑誌こそ「週刊少年ジャンプ」であり、そこに掲載されているマンガ「Dr.スランプ」を私は一読、魅了された。

 当時、「ドラえもん」とか「あさりちゃん」のような所謂「小学館の学習雑誌」的なマンガしか知らない私には、まったく別物のマンガだった。それこそ、「今までのマンガは何だったのか」というくらいのショックを受けた。
 しかも、雑誌の冒頭のカラーページには「今春からアニメ放送開始」とある。「これは必ず観なくては」と私は決意し、第1回目の放送を視聴、こちらもたちまち魅了された。

 その後、世間はたちまち「アラレちゃんブーム」。どこもかしこもアラレちゃんアラレちゃんアラレちゃん、そのブームがどれくらいの期間続いたかは、今となっては不明だけれども、その間、日本は「アラレちゃん」に溢れた。
 とにかく「アラレちゃんを付けておけば、間違いない」といった感じで、何でもかんでも、アラレちゃんガッちゃんスッパマンニコチャン大王等々、「Dr.スランプ」のキャラクターが印刷されていた。

 その後、このレベルのマンガやアニメのブームは無かったと思う。セーラームーンやエヴァンゲリオンも、ここまでではなかったと思う。もうちっと「限定的」だったろう。強いて言えば、「妖怪ウォッチ」が割りに近かったかもしれない。でも、さすがに規模が違うかな。

 そういう訳で、当時のお父さんお母さん、すなわち私の父親母親の世代には、買いたくもない「アラレちゃんグッズ」、玩具のみならず、文房具、衣類、食器、寝具等々を買わされた苦々しい記憶があるだろう。そうして、これは以前書いたけれども、この世代にはそれを購う、子供に買って与えられる購買力があった。で、その購買力をアテにして、日本全国の各企業が、という図式である。

 そうして、「アラレちゃん音頭」。これも、当時のお父さんお母さん達は、踊りたくもない「アラレちゃん音頭」を踊らされた苦々しい記憶があるだろう。
 現在、ヨーロッパや南米で、鳥山明追悼の想いを込めて、「チャラ、ヘッチャラ」が合唱されているが、日本では、「アラレちゃん音頭」を踊って、格の違いを見せつけてやるべきであろう。さすが本国は違う。格が違いすぎる。べっくらこいた〜、おこられちった、ほよよでほよよでほよよでほよよでほい。めちゃんこ、めちゃんこ、めっちゃんこ、アラレ音頭で、んちゃちゃちゃ。

 この「アラレちゃんブーム」というのは、「ドラゴンボール世代」には、意外に理解しにくいものらしいけど、「Dr.スランプ」も大人気だったのである。むしろ、瞬間最大風速ならば、明らかに「Dr.スランプ」の方が上である。
 そういった意味でも、「Dr.スランプ」と「ドラゴンボール」の関係は、「オバケのQ太郎」と「ドラえもん」の関係のそれに、よく似ている。一気にドカーンと人気の出た「Dr.スランプ」と「オバケのQ太郎」、静かに広く、そうして確実に人気を得ていった「ドラゴンボール」と「ドラえもん」。

 そうして、「オバケのQ太郎」ブームと「Dr.スランプ」ブームの当事者たちが、それぞれ「ドラえもん」と「ドラゴンボール」の人気に当惑しているのも、よく似ている。「Dr.スランプ」ブームの当事者だった私は、自分より若い世代が「ドラゴンボール、ドラゴンボール」いうのには、ちょっと驚いたもんね。後述するが、中学生の頃には、私にとって、「鳥山明」は「終わってる」作家だった。

 もっとも、それはもうちょっと後の話で、「Dr.スランプ」ブーム当時は、私も、その片棒を担ぎ、「キーン」と言って走りまわったり、「○○ちん、ガッコ行こ」と登校時叫んでいたものである。さすがにウンチを棒には刺さなかったけどな。でも、「ツンツン」ぐらいはしたかな。

 あと、「アラレちゃん消しゴム・セット」も、「カッテカッテ」で買ってもらったなあ。無論、消せる奴ではなく、人形の消しゴムセットである。アラレちゃんガッちゃんを始め、「Dr.スランプ」のキャラクター人形が20体くらいセットされているものである。もう、実家にないだろうなあ。サルベージしたいなあ〜。

 んで、アニメの方も欠かさず見て、第1回放送から最終話まで、全話、私はその本放送をリアルタイムで見た。私が、全話、その本放送をリアルタイムで見たのは、この「Dr.スランプ」と「キャプテン」のみである。

 「キャプテン」は全26話なので、それほど難しい事ではないが、「Dr.スランプ」は全243話である。これはなかなかの難事業であろう。父親の「プロ野球攻撃」にも耐え抜き、私は貫徹したのであった。あっ、90年代のリメイク版は、こちらは全然見ていません。さすがにね。

 ちなみに、この「Dr.スランプ」が7時30分に終了すると、続いて始まるのは「うる星やつら」。恐ろしい時代である。「右向いて左向いて、バイチャバイチャ」の後、CMを挟んで、「あんまりソワソワしないで〜」が始まるのである。その後、このコンビは「ドラゴンボール」「めぞん一刻」になる訳であるが、当時、アニメというのは、こういう風に放送されていたのだ。7時30分「仮面ライダー」、8時「キカイダー」、8時30分「デビルマン」とかね。今現在の深夜の訳の分からん時間に放送されているアニメと、70年代80年代のアニメは、全くのとまでは云わないけれど、ある程度は「別物」と考えるべきであろう。

 ちなみに、この手のアニメ・特撮番組の連続で最も強烈なのは、6時「ガッチャマン」、6時30分「サザエさん」、7時「マジンガーZ」、7時30分「ムーミン」であろう。全部、伝説級、お化け番組。子供たちの心、つかチャンネル権をがっつり掴んで、「家族対抗歌合戦」に流れ込む訳である。この流れに対抗する、せめてどうにか「家族対抗歌合戦」の視聴者を奪うには「元気が出るテレビ」の登場を待つより他はなかったのである。

 さて、「Dr.スランプ」のアニメに話を戻すと、この「Dr.スランプ」のアニメに私が魅了されたのは、原作自体が面白いのは無論の事であるが、なにより新しかった。あるいは、既存のアニメとはちょっと違っていたからである。それは、子供心にも感じた。

 それは、原作を、悉くとまでは云わないが、その大部分をアニメで再現しているのである。それは、キャラクターやストーリーのみならず、ギャグやカット割り、構図まで、出来うる限り再現されているのである。さすがに、コマ割りは再現のしようがないが、そのほかの多くの部分は、マンガそのままなのである。言葉の正しい意味で、「テレビまんが」なのである。

 これは、現在では当然の事かもしれないけど、当時では「画期的」な事であった。というのも、当時、70年代くらいまでの「マンガ原作」のアニメの多くは、原作とは大きく異なっていて、大概「つまらなかった」からである。いちいち名前は挙げないけれど、例えば、「一球さん」とかも酷かったよね。

 まあ、スポーツアニメはスポーツアニメで、独特の難しさ、すなわちスポーツシーンを描く難しさがある訳だから、致し方ないのだけれど、スポーツものの保守本流である「野球」でさえ、ある程度しっかり描けるようになるのは、先に挙げた「キャプテン」とか「タッチ」あたりからである。「ドカベン」も酷かった、というか辛かったよね。

 そのほかのスポーツになると、もっと酷くて、「スラムダンク」のバスケットボール・シーンに井上雄彦が不満を持っていたのは有名な話である。

 そういったスポーツ漫画に限らず、多くのマンガ原作のアニメが「つまらない」のは、子供の世界、そうしてマンガ業界、アニメ業界では当然の事とされていた。まあ、仕方ないよね。これは今でも問題になっているけれど、マンガとテレビアニメやアニメ映画は、その作品の構造が全然異なっているからだ。別物といってよいであろう。変な譬えになって申し訳ないけれど、それはトンカツをお菓子にしようとするようなものである。上手くいく訳がない。

 そもそも、「漫画」の最も重要な構造物である「コマ」が、テレビアニメや映画アニメには「無い」のだから、そりゃ、どうしようもない。

 これは、「マンガ」の「テレビアニメ化」「アニメ映画化」の逆である、「テレビアニメ」や「アニメ映画」の「マンガ化」、すなわち「コミカライゼーション」にも同様の事がいえて、「コミカライズ」も大概「つまらない」。

 この手の問題を「原作への愛」の問題だと主張するバカは山ほどいるけれど、そんなのは全然関係なくて、これは「構造上」の問題なのである。

 この問題を解決する方法は、おそらく一つしかなくて、原作漫画はあくまで原作と割り切り、テレビアニメやアニメ映画として、一から物語、作品を作り出すしかないであろう。

 同じ事は、「小説」の「アニメ化」や「マンガ」の「実写化」にも云えるのだけど、これらは、「見た目」があからさまに違うので、製作者、視聴者ともに、この問題を自覚し、了承できるのであるが、「マンガ」の「アニメ化」、あるいは「アニメ」の「マンガ化」の場合、「見た目」が似ているので、この問題を、自覚了承できにくい。んで、「原作愛」云々になってしまうのである。

 ただまあ、自覚はしていても、当然難しいので、これを多くのテレビアニメ関係者、アニメ映画関係者が失敗してしまうのであるが、その中でも数少ない成功例があって、それは例えば、「侍ジャイアンツ」とか「ど根性ガエル」とかである。あと、「タイガーマスク」なんかも入れて良いかな。これらは、数少ない「マンガより面白いアニメ」であった。

 では、なんで、これらが面白かったかというと、「作り手の力量」と言ってしまえば、身も蓋もないけれど、これらの製作者たちが、先の問題をはっきり自覚し、それを解決する能力を持っていたという事であろう。
 ちなみに、「侍ジャイアンツ」の第1話には、宮崎駿も参加していて、実際、宮崎駿的女、峰不二子みたいな女が登場している。まあ、宮崎駿的というか、大塚康生的女かもしれないけど。
 
 先にちょっと、「原作への愛」云々みたいなことを書いたけれども、そんなのと作品の出来が全然無関係である事の、最も分かり易い証拠は、なにより「ルパン三世」であろう。大隅正秋はともかくとして、宮崎駿に「『ルパン三世』への愛」は全然無いよね。というか、「マンガ原作のアニメ」自体に全然興味が無いのであるから。それでも、とうか、だからこそ「カリオストロの城」が作れてしまうのである。あれに、「『ルパン三世』への愛」を感じる人はいないであろう。実際、純然たる「ルパン三世」ファンからは評判悪いらしいしね。映画として、面白いのは認めるけれども、……。

 とまあ、こういった事情はジャンプ編集部も重々承知していて、それ故「アニメ化」は渋っていたのだという。連載開始1年後に「アニメ化」された作品が「アニメ化を渋っていた」というのは、おかしい感じ、計算の合わない感じがするけれど、「Dr.スランプ」は、連載開始した瞬間、すべての民放局から「アニメ化」の話が来たらしいので、決して「計算が合わない」訳ではない。私に限らず、1話読んだだけで。誰もが魅了される作品だったのである。

 そういった状況下、最もしつこかったのがフジテレビで、それに折れた、というか、折れざる得なかったらしく、「テレビ局やアニメ制作会社のいう事を聞かない」、すなわち「集英社やジャンプ編集部が好きなようにやる」という条件で、「アニメ化」を飲んだらしい。

 で、Dr.マシリトが東映やフジテレビに乗り込み、例の調子で「ボツボツボツボツボツボツ」を出しまくって、出来上がったのがアニメ版「Dr.スランプ」、すなわち「Dr.スランプ アラレちゃん」であるらしい。故に、限界ギリギリまで、原作が再現されているのである。

 ちなみに、「Dr.スランプ アラレちゃん」は、あれだけのヒット作であったにもかかわらず、関連書籍やムック本等々が少なく、私はかねがね不思議に思っていたのであるが、当時の製作者たちがDr.マシリトの「ボツボツボツボツボツボツ攻撃」に辟易していて、当時を思い返すこと自体が苦痛らしく、それが理由で関連書籍やムック本等々が少ないらしい。「思い出すのも苦痛」とか「二度とやりたくない」みたいな話ばかりになってしまうらしい。そんな、恨みつらみしか書かれていない本、買いたくないよね。恐るべき哉、Dr.マシリト。

 んで、その挙句の果てに、「ドラゴンボール」時代になると、「アクションシーンが酷い」という理由で、捨てられる始末(これが「Z」に変わった理由)。そりゃ、思い出したくもないよね。

 そういった怨嗟の声が積み重なって出来上がったのが、あの「Dr.スランプ アラレちゃん」なのであるが、その後、「マンガ原作アニメ」は、みなこの方式「原作漫画出来得る限り再現方式」になっていき、それ以外の方法だと「原作への愛が無い」とかいって、批判されてしまうのである。当時、高畑勲や宮崎駿が現実をリアルに再現する事に粉骨砕身していたとすれば、こちらはマンガをリアルに再現する事に粉骨砕身していたといえるであろう。

 まあでも、「原作漫画出来得る限り再現方式」が全てじゃないよね。実際、「タイガーマスク」や「侍ジャイアンツ」や「ど根性ガエル」のような、この方式に依らぬ傑作もある訳だし。そう、この方式の最大の欠陥はここで、確かに、この方式を採用すると、原作より著しく「つまらない」作品は生まれにくいけれども、その一方で「原作を超える」作品、「原作より面白い作品」が絶対に生まれないのである。そりゃそうだよね、原作漫画にできうる限り近づけるのが理想なのだから。原作漫画を超えたら、理想から遠ざかってしまう。

 アニメ制作者は、表現の幅を広げる意味でも、別のアプローチを探るべきじゃないかなあ。所謂「原作ファン」がカンカンになって怒るだろうけどさ。

 ただまあ、こういう事を書いていて、あるいは考えていて、ちょっと思うのは、高畑勲や宮崎駿の作る「Dr.スランプ」を見てみたかったなって事である。同じ頃、高畑勲は「じゃりン子チエ」を制作していて、宮崎駿は、それに参加するとかしないとか状態だったらしいが、高畑版、あるいは宮崎版「Dr.スランプ」が製作されていたら、史上稀にみる傑作になっていたと思う。彼らが、この作品に、どういうアプローチをしたのか、興味深い。まあ、現状でも、私は十分満足だけどね。

 という訳で、アニメ「Dr.スランプ アラレちゃん」は、非常に画期的、新しいアニメだったのだけれども、同じ事は鳥山明自体にも云える。画期的かは、微妙というか、違うのだけれども、「新しい」、「それまで見た事のない」作家であったことは間違いない。そこに、当時の子供たちや若者は魅了されたのである。

 当時、1980年前後、日本の文化と云ったら大袈裟だけど、日本の子供文化の世界において、明らかに「新しい」ものが三つあった。一つは「機動戦士ガンダム」、もう一つは「ビートたけし」、最後の一つが「鳥山明」。
 まあ、あと、「TVゲーム」というのも、あるにはあったけれども、これは先の三者とは「新しさ」の質が異なる。こちらは、全く「新しい」おもちゃ、あるいは全く「新しい」道具としての「新しさ」であって、先の三者とは質的に異なる。

 この三者の「新しさ」は、それ以前のもの、すなわち、それ以前の「アニメ」「お笑い」「マンガ」を、それぞれ「古い」ものにしてしまったという意味での「新しさ」である。この三者の登場によって、それ以前のものが「ダサく」なってしまったのである。「機動戦士ガンダム」が「マジンガーZ」を、「ビートたけし」が「ドリフターズ」を、「鳥山明」が「藤子不二雄」を。

 「機動戦士ガンダム」の「新しさ」については、それこそ「インディfromインディ」の項で、がっつり書くつもりである。「ビートたけし」は機会があれば。それこそ、死んだら。で、今回は、無論、「鳥山明」の「新しさ」について。

 って、書こうと思ったけど、長くなってきたので、以下次回。

                                         2024/3/24(日)

 いや〜、一平ちゃん問題盛り上がってましたね〜。ただの通訳、それもプロ野球選手の通訳に過ぎないのにね。かつて、これほど人口に膾炙した通訳がいただろうか。バルボンさん以来かもしれん。

 しかも、この期に及んで「水原氏の英語力が…」なんて言ってるバカがいる。言ってて恥ずかしくないのかね。精神的に腐っていると思う。一平ちゃんの英語力に苦言を呈するなら、一平ちゃん人気が絶頂の頃に云えっつの。ヘドが出る。

 今回の問題は、前回も書いたけれども、結局のところは一通訳の問題なのだから、大谷本人のスキャンダルにはならないと思う。それを願う人は意外に多いみたいだけど。

 強いて言えば、チームと大谷に監督責任があるかという点だろうけど、普通に考えれば、水原本人はともかく、チームも大谷も「違法」とは知らなかっただろうし、「違法」と知ったからこそ、「解雇」に踏み切ったのだろうし、おそらく、大谷も「借金の肩代わり」を止めたのであろう。

 監督責任については、これは微妙なところだと思う。従業員の不法行為に関しては、よほど重大な事件でない限り、人命にかかわるような問題でない限り、その雇用主の責任は問われない。トヨタの期間工が万引きをしたからといって、トヨタの社長が更迭されることは無い。飲酒運転での致死事件とかなると、多少責任は問われるかもしれないけれど、あくまで「多少」であろう。株主総会で怒られるぐらいはあるかもしれない。従業員教育は、どうなってんだ。

 ただ、今回の一件で唯一の懸案事項は「大谷本人がギャンブルをしていたか」という点であろう。

 ただ、これは、残念ながらというべきか、幸運にもというべきか、「賭博」という犯罪は、なかなかに立証の難しい犯罪なのである。自白を除けば、あとは「現行犯」で逮捕するしかないのが、「賭博」という犯罪である。これが、薬物犯罪であったら、それこそ「家宅捜索」して、それっぽいものが見つかれば、それで終了である。

 ところが、「博打」の場合、「家宅捜索」をして、トランプやサイコロが見つかったところで、それが「賭博」の証拠にはならない。
 唯一の証拠っぽいものとしては、金銭授受の記載された「帳簿」や「銀行口座」であろうが、これにしたって、「仕事上の付き合いがあって」とか言われちゃったら、もうどうしようもない。あとは「所得税」とか「贈与税」の問題になってしまう。

 という訳で、仮に大谷がギャンブルに手を染めていても、よほど巧妙な捜査をするか、大谷がバカ丸出しのドジを踏まない限り、立証、立件は難しかろう。

 ただし、これはあくまで「一般社会」での話であって、「プロスポーツマン」となると、少々話は異なる。前回の記事にも、ちょろっと書いたけれども、「プロスポーツマンのギャンブルは御法度」だからだ。そりゃそうだよね。プレーヤーの八百長が疑われたら、興行にならない。興行、すなわち営業活動の根幹にかかわる問題だからである。実際、競馬、競輪等々の選手は、レース期間中、「外部との連絡遮断」状態を強いられる。

 先の期間工の譬えでいえば、これは「万引き」ではなく、「指示通りにネジを締めない」という類の問題なのである。コンビニの店員が「『いらっしゃいませ』と言わない」という類の問題なのである。これらは、当然、株主総会で社長は厳しく叱責されるであろうし、責任問題にも発展するであろう。すなわち「職務違反」である。

 今回の事件の報道や議論を見ていると、この点を混同混乱している人が意外に多い。「大谷のギャンブル疑惑」というのは、あくまで「プロスポーツマンとしての問題」であって、「一般社会」あるいは「一市民」としての問題ではない。

 ぶっちゃけ、「違法賭博」ぐらいじゃ、書類送検ぐらいはされるかもしれないけど、起訴はされないよね。よほどの常習、悪質なものなら話は別だけど、今回の一平ちゃんぐらいだったら、不起訴処分が通常であろう。こんなので、いちいち起訴してたら、カリフォルニア州の裁判所は、年がら年中「バクチ裁判」してなきゃいけなくなってしまう。まさしく、「ギャンブル漬け」である。

 ただし、「プロスポーツマンのギャンブル疑惑」は別。かつてのシューレス・ジョーや池永、ピート・ローズのように、疑われただけで、「永久追放」となってしまう。そりゃそうである。「業務上の重大な瑕疵」に当たるからだ。

 ただ、これは、あくまで「プロスポーツ」に限っての話で、「アマチュア」は関係ない。「アマチュアスポーツ」は、あくまで「自分」のためであって、「他人」のため、すなわち「興行」ではないからだ。

 まあ、勿論、自チームに八百長している選手がいたら、「コノヤロー」という話になるし、「八百長」が発覚すれば、「賭場」は荒れるであろう。それこそ、ヤクザ屋さんの出番となる。

 ただし、それは、あくまで「身内」での問題であって、「一市民」としての問題でもなければ、「職務違反」でもない。まあ、「『仲間うち』で解決してくれ」つうだけの話である。

 さて、話を「大谷のギャンブル疑惑」に戻すが、この疑惑が晴れるか深まるかは、先に書いた通り、ギャンブルという犯罪(?)の性格上、なかなかに立証は難しいので、結局は「普段の行い」になっちゃうんだよね〜。

 前回の記事で、「池永には、八百長するだけの技量があった」と書いたけれども、池永が疑われ、結局「永久追放」の憂き目にあったのは、その「大胆不敵な性格」と、その表裏一体のものであろう「ふてぶてしさ」にも一因があったとされている。すなわち、「技術」に加えて「性格」的にも、「八百長をしていても、おかしくない」と思われてしまったのである。また、その「ふてぶてしさ」から、チームメイトや記者に嫌われていたのも、その一因とされている。「人を食ったような」、あるいは「生意気」と受け取られていたのだろう。

 ピート・ローズも同様だよね〜。相も変わらず、不用意な発言で、今現在も内外に敵を作り続けている。そういうとこだよ〜、「永久追放」になっちゃたのわ〜。

 シューレス・ジョーについては、よく分かりません。

 という事で、「普段の行いが大切」というお話でした。チャンチャン。


 いや、チャンチャンじゃねー。まだ、本題に入ってねーよ。いや、本題でもないけどさー。

 で、本題は何かっつうと、そうそう、鳥山明の「新しさ」についてだ。

 私が「Dr.スランプ」を読んで、まず第一に感じたのは、そのギャグの「新しさ」であった。

 鳥山明の「ギャグ」あるいは「笑い」の特徴はというと、なんつーか、うまく説明しづらいのであるが、「『本音』と『建て前』のズレ」みたいので、笑わせる、あるいはギャグにするタイプの笑いであるという点である。

 分かり易いのは、「ウメボシ食べて」でおなじみ(おなじみでもないか、)「スッパマン」であろう。クラーク・ケント(?)が電話ボックスで変身、つか着替えて、「ウメボシ食べてスッパマン」とさっそうと登場する。でも、ブサイク。そうして、敵というか、周囲の人たちが呆然としている中、「決まった。ワシ、かっちょいいー。」なあんて、心の中で思っている。

 ちなみに、この手の「笑い」は、非常にマンガ的なものであるといえよう。これが、例えば、小説だと、「スッパマンは、ビシッとポーズを決めた。そうして、心の中では『決まった。ワシ、かっちょいいー。』と思っていた。」といった感じで表現することになると思うが、いまいち面白くない。というのも、小説なんていうのは、そもそもが、主に「心模様」を描く文学形式であるから、当たり前すぎて「ギャグ」にならないのである。

 また、映画やアニメであると、そもそもが「心の声」を表現しにくいジャンルである。ナレーションという形で「心の声」は表現できなくはないけれども、その際、登場人物が「喋っていない」という事を強く表現しておかないと、視聴者は、「心の声」と「実際の発声」の区別がつかなくなってしまう。実際、拙い映画だと、「何だ、これ、『心の声』だったんかい。」みたいなツッコミはありがちである。

 ところが、これがマンガだと、この表現が非常に容易である。フキダシの種類を変えればよいだけだからある。しかも、同じコマで、「実際の発声」のフキダシと「心の声」のフキダシを共存させることもできる。すなわち、「心の声」と「実際の発声」が同時である事を示す事ができる。しかも、非常に容易に、である。これは、他の芸術ジャンルでは、なかなかに難しい表現であろう。ちなみに、この「時間を自在に操る」というのはマンガ特有の技法なのであるが、それはまた別の機会、「手塚治虫」の話をするときにでも、説きたいと思う。

 で、「鳥山明」に話を戻すと、「鳥山明」には、こういうタイプ、すなわち「『本音』と『建て前』のズレ」の笑いが非常に多い。先に挙げた、マンガ特有の「同時共存」を使わなくても、たとえば、「ドラゴンボール」で、地下洞窟から脱出する際、悟空が遅れていて、それをクリリンが気にしていると、ブルマが「孫くんを置いて逃げるわよ。」。それをクリリンがグズると、「この際ハッキリ言うわ、私がこの世で一番大事なものは、自分の命よ。あなたは何。」。「そう言われれば、僕も命ですけど、」。「ダイジョーブ、ダイジョーブ、孫くんなら何とかするから。」なあんてのも、典型的な鳥山ギャグのシーンであろう。

 そうして、こういう「笑い」は、それまでには案外無かったものである。それまでの「笑い」というと、頭のおかしな人、バカボンのパパとかがきデカとかトシちゃんとかが出てきて、奇妙奇天烈なことを次から次へとして、周囲を振り回すというものばかりだった。「『本音』と『建て前』のズレ」も無くは無かったけれども、笑いのパターンの一つでしかなかった。それを全面的に押し出してきたのは、「Dr.スランプ」あるいは「鳥山明」が初めてだったと思う。「1・2の三四郎」もそれに近かったかな。

 そういった意味では、「ねーねー、博士、アタシつおい?。」っていうのは、まさしく「Dr.スランプ」、そうして「鳥山明」を象徴するセリフだったと思う。これそのもののセリフは原作に無いけどな。でも、そんなセリフがあったと私が思い込むほどに、特徴的な笑い、象徴的なセリフであったのだと思う。

 「アラレちゃん」というのは、まさしく本音しかない主人公であり、故に「無垢」であり、その主人公に振り回されて「笑い」が起こるというのが「Dr.スランプ」の基本構造であろう。「ドラゴンボール」も同じ構造なのだけれど、バトル色が強まるにつれて、色々と無理が生まれてしまってはいる。

 この「『本音』と『建て前』のズレ」というのが、私が「Dr.スランプ」に感じた「新しさ」のひとつであった。もっとも、当時の私は、そんな事は知る由もなかったけれど、はっきり感じてはいた。この理屈を知るのは、もうちっと後の事である。

 もっとも、このタイプの笑いは、「鳥山明」に限ったことではなく、当時のお笑い界全体に云えた事でもあろう。「ビートたけし」などは、まさしく、その象徴かつ代表であろう。

 まあ、「お笑い」界に限らず、世の中全体がそういうものを求めていた、そういう時代の流れだったとも云える。「本音を言う」あるいは「本音を知る」というのは、まさしく戦後の日本社会全体が大人になっていった事の証であろう。1970年から1980年くらいの10年間が、そういう時代だったのである。

 それまでは、手塚治虫流、あるいは梶原一騎流、あるいは三島由紀夫流の「建て前」一辺倒だったのが、少しづつ崩れていき、良くも悪くも「本音」が前面に出てくる時代だったのだろう。「仮面」ではなく、「素顔」が告白し出したのである。そういった意味でも、1970年の三島由紀夫の自決というのは、まさしく時代を画す事件だったと云える。

 杉作J太郎先生が「かつて、若者が富や名声を求めるのは恥ずべき事であった。ところが、1980年あたりを境に、それは恥ずかしい事ではなくなってきた。それどころか、美徳にすらなった。」と書いているが、それは、まさしくそういう事なのであろう。

 ちなみに、当時の若者たちが、富や名声ではなく、何を求めていたかといえば、それは「荒野」であったとJ太郎先生は云う。「あの山の向こう」といっても良いもしれない。

 大人になる喜びに浮かれていたのが80年代であり、大人である苦しみを知ったのが90年代以降という言い方もできるかもしれない。

 「いやいや、子供こそ『本音』の世界であり、大人こそ『建て前』の世界であろう。」という反論もあるかもしれない。確かに、一見すると、そう見えるが、そこに落とし穴がある。事はもっと複雑なのである。

 子供こそ「建て前」を守るのである。だって、そうでしょう、一部の例外はいるけれども、多くの子供は、親の言う事、先生の言う事、世間の習慣や習わしを守るでしょう。そうして、成長するにつれて、「建て前」がウソッパチである事、「本音」があることを知っていく。「異性を愛する」のは、「幸せな結婚生活を送る」ためではなく、「性欲を満たす」ためでもあることを知ってしまう。すなわち、「結婚抜きの恋愛」のあることを知ってしまう。まさしく「ビートたけし」の言う「好きなタイプの女性は、すぐやらしてくれる女」である。

 そういう「本音」を知り、どういう生き方を選ぶかは本人次第であるにせよ、「本音を知る」というのは「大人になる」という事であろう。

 先に、私は「『アラレちゃん』というのは、まさしく本音しかない主人公」と書いたけれども、そういった意味では、むしろ逆に『建て前』しかない主人公とも云えるかもしれない。オボッチャマン君なんて、まさしくそうだよね。

 で、そういう「本音」を、仕事のためとはいえ、グイグイ押し出してきたビートたけしや鳥山明、更には、その影響をモロに受けた私たちの世代が、後年ややこしい問題に直面する事になるのは、また別の話。

 っていうのが、私が「鳥山明」に感じた「新しさ」のひとつであるが、「鳥山明」の「新しさ」は、無論、そればかりではない。もっと、重大な事がある。申す迄もなく、画である。

 鳥山明の訃報に接し、皆が争って鳥山明の「画力」を褒めているけれども、こっぱずかしいよね。なかには、てんで的外れなのもある。

 例えば、「鳥山明は描写が細かい」なんてのもあるけど、「描写が細かい」のは「絵の上手さ」とは、何の関係もない。むしろ「へたっぴ」な人が、その下手さを隠すための常套手段が、「細かい描写」である。線の数を増やすと、「下手さ」がボヤけるからだ。プラモデルの下手な人が、やたらに、「スジボリ」したりウェザリング」したり「デカール」を貼ったりするのと同じである。それらを施すと、プラモデルが上手っぽく見えるのである。
 ところが、プラモデルの上手い人は「表面処理」で勝負するのである。絵の上手い人は、無論、「デッサン」と「彩色」で勝負するのである。「線の多さ」は、何の関係もない。むしろ、「先が少ない」のは、プラモデルにせよ絵画にせよ、上手い人の特徴であろう。自信といっても良いかもしれない。

 もっとも、「上手っぽい」と「上手い」の違いは何かと問われれば、返答に窮する。「線の多さ」は一つの方法だとも云えるかもしれないが、「誰にでも」できる方法ではあろう。「才能」とは関係ない。

 一例をあげれば、こんな感じで、今や、ここぞとばかりに、ありとあらゆる方法で、鳥山明の画力が称えられているけれども、本来、「鳥山明の画力」は素人には分かりにくいものである。

 実際、ここ10年くらい、誰もが競って「鳥山明の画力」を讃えているけれど、かつては、それに気付いている人は少なかった。この辺の事情をうまく表しているのが柴田ヨクサルで、彼はかつて、こう語っていた。「僕はマンガ家になる前は、北条司先生みたいのが上手いと思っていたんですけど、マンガ家になって初めて分かった。鳥山先生ハンパネー。」。

 そう、本来、鳥山明の絵の上手さというのは、マンガ家や、マンガを書こうとした人でなければ、分かりにくいものなのである。鳥山明がデビューした時、手塚治虫や藤子不二雄といった大御所、とりわけ「絵の下手な」大御所が、こぞって彼を絶賛したのは、そういう意味なのである。実際にマンガを書こうとした人が、実際に直面する困難を、易々とかはともかく、はっきりクリアしているのが、鳥山明の画なのである。手塚や藤子でさえも、「あんな風に描けたら、いいなあ。」と思ったことであろう。

 じゃあ、それは具体的にどういう事かというと、「絵が可愛い」とか「コマ割りが上手い」とか、そういう事ではない。「絵が可愛い」はともかく、「コマ割り」は、デビュー時はへたっぴだったしね。

 それらは、「どうでもいい」とまでは云わないけれど、鳥山明の「画の上手さ」というのは、そういうイラスト的な目立つ個所にのみあるのではなく、むしろ、目立たない箇所、素人的には気付きにくい所にある。「ちょっとしたシーン」を、鳥山明はちゃんと書けるのである。これが、多くのマンガ家が出来ない、あるいは苦手とする所なのである。

 例えば、「朝、僕は学校に行った」というシーンを描こうとする。こんなの文章で書けば、ものの1秒もかからないけれども、「マンガ」で描こうとすれば、相当の難事業である。

 まず、「朝」、これの表現で難儀する。「朝なら、『朝日』を描けば良いじゃないか。」と思う人もいるかもしれないが、「朝日」を書くのが、なかなかの難事業である。なぜなら、「朝」と「昼」と「夕」の太陽の違いを書き分けられるのは、相当の「画力」が要請されるからである。

 で、それを諦めて、「雀がチュンチュン」とか「テレビの『モーニングニュース』」とかを描く事となる。しかも、これはこれで、それなりの「画力」が要請される。

 で、次は「僕は学校に行った」であるが、これもこれで面倒だよね。仮に「登校シーン」で表現するとしても、制服なのか私服なのか、制服ならブレザーなのか学ランなのか、描き分けねばならない。また、仮に「学ラン」だとしたら、この「僕」は「学ラン」をどのように着ているのか、描き分けねばならない。襟をきっちり閉めているのか、ボタンをはずしているのか、外しているなら、一個だけか、それとも全部か、いちいち描き分けねばならない。

 また、靴はスニーカーなのか革靴なのか、スニーカーならアディダスなのかプーマなのか、ナイキなのかリーボックなのか。

 事程左様に、「朝、僕は学校に行った」を表現するだけでも、小説に比しては勿論、映画に比しても、相当にメンドイのが「マンガ」というジャンルなのである。もっとも、アニメは、ここに「動き」が加わるので、よりメンドウになるが。

 一時が万事、こんな調子なのが、「マンガ」である。

 例えば、誰かが「面白い事」をして周囲が笑う。これも、当然ながら、きっちり描かねばならない。それも、キャラクターの性格によって、笑い方は様々である。大口を開けて笑う人もいれば。クスクスと含み笑いをする人もいるだろう。また、笑いの意味が分からず、キョトンとしてる人もいれば、分からないながらも、周囲に合わせて「笑う」人もいるだろう。あと、これは珍しいかもしれないが、床を叩いて笑う人もいるだろう。それらを全部描き分けねばならないのが「マンガ家」なのである。

 もっとも、それらがメンドクサイので、両足二本のアレが発明流布した訳であるが。

 で、更には「背景」である。こちらは、いよいよメンドクサクなって、昨今はアシスタントに丸投げである。ちなみに、鳥山明は、これも自分で描いていらしい、鳥山明の「背景」は難しすぎて、本人しか描けず、仕方なしに「自分で」描いていたそうである。「ドラゴンボール」が、「背景」の少ない、あるいは「背景」の無いところで戦いがちなのは、これが理由だそうである。かつて、夏目房之介は「ペンギン村の地平線が描けない」って嘆いていた。

 というように、「何でもかんでも」描かねばならないのが「マンガ」なのである。これが「小説」だったら、作品にとって必要な事だけ、書いていれば良いのだけれど、「マンガ」だと、そうもいかない。いちいち全部書かねばならない。ちなみに、「映画」の場合は、いちいち、それらを用意、あるいは制作しなければいけないので、「マンガ」とは種類は異なるが、こちらも同様に「メンドイ」。

 で、しかも、適当に描くと、後々響いたりもしてしまう。例えば、先の「登校シーン」で、安易に「ナイキ」のスニーカーを描いてしまうと、後々「このキャラクターが、ナイキのスニーカーを履く筈がねー。」みたいなクレームを受けてしまう事もある。

 また、こういう物語内部の事情の他に、物語外部の事情もある。例えば、キャラクター設定を凝りに凝って、妙な服装をさせてしまうと、後々、描くのが「メンドウ」という事になる。「ひろしのサングラス」みたいなパターンである。

 で、更には「動き」も、「アニメ」ほどではないにせよ、描かねばならない。とりわけスポーツもの、中でも格闘もの、中でもケンカものに、これは必須である。ケンカマンガとエロマンガは画が上手くないと、字義通り、「話」にならないのである。

 その「格闘もの」でも、空手や柔道、ボクシングのような「格闘技もの」なら、まだいい。「型」があるからである。また、資料も多い。

 ところが、「ケンカ」には「型」は無い。資料も少ない。そもそも、子供のケンカはともかく、大人のケンカを実際に見た事あるのは、その筋の人たちが大半であろう。私もン十年生きてきたが、大人のケンカは未だ見た事がない。

 というような、多くのマンガ家も多くの読者も見た事のないものを描かねばならないのが、ケンカマンガである。マンガ家も読者も見た事のないものにリアリティを与えなければならないのが、ケンカマンガである。

 しかも、格闘技の場合、特殊な例外を除いて、体格や実力は、おおよそ近い。ところが、ケンカは、それらがバラバラである。素人と百戦錬磨、チビとデブが戦うのが、ケンカである。しかも、武器の使用もある。そうして更には、複数対複数もあるのがケンカである。んで、とどめに、決着の付き方、勝敗の決し方も曖昧である。

 というような非常に高いハードル越えねばならないのが、ケンカマンガなのである。

 で、実際、ケンカマンガ、あるいは不良マンガの描き手は、総じて画が上手い。きうちかずひろ、高橋ヒロシ、皆然りである。

 ちなみに、意外なところだと、どおくまんも画は上手い。信じてもらえないかもしれないが、どおくまんは画が上手いのである。ただ、どおくまんの場合、作品どころか、コマごとに、画の巧拙の差が激しい。これは描き手が違うのかもしれない。

 「では、本宮ひろ志は、」と問われることになろうが、本宮ひろ志は確かに画はヘタッピである。最低レベルといっても良いかもしれない。ただし、本宮ひろ志の真骨頂は、「話の構成の上手さ」にあるので、それで画の拙さを補っているのである。

 余談になるが、「話の構成の上手さ」に関しては、この本宮ひろ志と梶原一騎が、私の狭い見聞の範囲では、双璧である。「ページをめくらせる力」がハンパない。どんどんページをめくってしまう。読みだしたら、止まらない。そうして、読み終わった後、ほとんどの場合、「なんじゃ、こりゃ」になる点でも、両者は同じい。ちなみに、その最高峰は、あらゆる恋愛マンガの頂点、「愛と誠」である。

 また、エロマンガに上手い、というかエロい画が必須である事は、説明するまでもあるまい。

 「では、福原秀美は、」と問われることになろうが、これも信じてもらえないだろうけど、福原秀美は画が上手いんだよ〜。画が上手いからこそ、梶原一騎の目を付けられ、若くしてデビューし、禁断の一語を言って、ああいう事になってしまったんだよ〜。

 で、話を「鳥山明」に戻すが、鳥山明は、ここまで書いてきた事をちゃんと描ける人なのである。

 例えば、「ドラゴンボール」。その戦闘シーンの素晴らしさについては、ありとあらゆる所で語られているけれども、それはまさしく、その通りである。

 例えば、ジャブとストレート。これを描き分けたマンガ家は、私の狭い狭い見聞の範囲では、おそらく鳥山明ただ一人である。それ以前のマンガ家には誰も出来なかったことである。また、それ以後も、おそらくいないであろう。

 あの勉強家のちばてつやにも出来なかった事であるし、現在の代表的ボクシングマンガである「はじめの一歩」にも、それは無い。もっとも、現在、「はじめの一歩」は、森川ジョージはほとんど描いていないらしいけど。まあ、描いたところで、やっぱり描けないだろうけど。

 一昔前、「あらゆるマンガで最も強いキャラクターは誰」みたいな議論があると、「ドラゴンボール」のキャラクターがトップ5を独占してしまう訳であるが、これは勿論、そういう「設定」だからというのもあるけれど、なによりその戦闘シーンの「描写」が多くの読者に説得力を与えたからであろう。

 ちなみに、多くの野球マンガに数多の剛速球投手が登場しているけれども、その速球がいかにも速いと思わせるような「描写」には、私は未だお目にかかった事がない。多くの剛速球は、打者や実況の「セリフ」で説明される。

 ところが、鳥山明は「剛速球」が描けるんだよね〜。アラレや悟飯は「剛速球」を投げてた。

 という風に、ありとあらゆるもの、それまで、そうして、それ以後のマンガ家の多くが、描きたくても描けなかったものを、鳥山明は、事も無げに描いてしまうのである。
 
 一口に言えば、それは「確かなデッサン力」という事ある。かつて、私は鳥山明の画の重力云々について書いたことがあるけれども、それも、すなわち「確かなデッサン力」の為せる業である。

 例えば、ディフォルメされている画でも、ちゃあんと「男」と「女」が書き分けられている。タロサは「男の腰つき」をしているのに対し、あかねは「女の腰つき」をしているのである。そうして、アラレやピー助は、ちゃあんと「幼児体型」。

 また、「スピード」の表現も卓越している。理由は忘れたけれども、普段はフワフワ浮かんでいるだけのガッちゃんが、全速力で飛ばねばならなくなった時、ちゃあんと「全速力で飛んでいる」のである。

 髪はなびくのではなく、後方にピタリと固定され、口を結び、目はしっかりと見開いている。すなわち、前方からの風圧を、ちゃあんと描写しているのである。この辺の「高速」の表現は、「ドラゴンボール」でも多用されたため、「ドラゴンボール」のみの読者も記憶しているであろう。

 こんな感じ。

     

 凡百のマンガ家だと、こういう場合、集中線のみで、風圧は描かない。あるいは、描けない。

 で、今、「ガッちゃん」の話が出たので、ついでに書くが、この「ガッちゃん」に限らず、「アラレ」や「ピー助」、更には「可愛くする必要」がある時、皆ちゃあんと「アヒル口」である。

 「アヒル口」というと有名なのは、眞鍋かをりでは全然なくて、何といっても「パーマンマスク」であるが、藤子・F・不二雄はこの意匠が気に入っていたらしく、多くのキャラクターが「アヒル口」になっている。ドラえもんの口先のクルクルがそれである。

 私は子供のころから、あの「クルクル」が何なのか全然分からなくて、最近、つっても20年前くらいだけど、ようやく知った。というか、分かった。あれは、「アヒル口」の記号だったのである。

 でも、そんな藤子・F・不二雄の「記号」より、鳥山明の「描写」の方が優れているよね。藤子・F・不二雄は、それが「記号」である以上、当然「可愛い」の表現のために使用しているのだけれど、鳥山明は、単純に「幼児」、あるいは「可愛い」を描写したのみであろう。髪の毛やベルトなど同様、そうなっているからそう書いただけの事である。後々、意識はした、あるいは、その「効果」に気付いていたかもしれないけど。

 今、ここに「記号」の話が出たけれども、この藤子不二雄に限らず、「確かなデッサン力」を持たない多くのマンガ家は、本来なら「画」で表現すべきところを「言葉」、すなわちセリフやナレーションで表現、というか説明したり、「画」と「言葉」の中間形態であろう「記号」で表現したりしてきたのである。

 あるいは、「表現」そのものを諦め、省いたりもした。鳥山明のような戦闘シーンを描かず、決めポーズで必殺技の名前を叫び、黒ベタバックに惑星の、所謂「車田正美方式」である。

 でも、これでも通じるのである。「マンガ」は成立するのである。本来、「画」で表現すべき所を、「記号」や「言葉」で代替、あるいは「表現」そのものを省く事でも、「マンガ」は成立するのである。そうして、それを証明した最初のマンガ家が、他ならぬ「手塚治虫」であり、それこそが、手塚の数多い功績のひとつなのである。そうして、この方式を採用したマンガが「手塚式マンガ」、すなわち現今の日本に氾濫する「マンガ」なのである。

 ところが、鳥山明は、それらで代替せず、それを省力することもせず、本当に「描いてきた」のである。故に、手塚治虫を始め、多くのマンガ家、先輩後輩を含めた数多くのマンガ家に、驚嘆され尊敬されてきたのだ。

 鳥山明のデビュー時に、「ようやっと、画を描ける人が出てきた」と評した人がいたが、これは、こういう意味なのである。

 では、「何故に、鳥山明は画が上手いのか」という事になるが、この話は次回。

 ドラフトも書かんとなあ。

                                       2024/4/11(木) 

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