インディアナポリス研究会

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<1/……/11/12>

不良少年と
プロスポーツマン
 表題は有名なエッセイからのパクリであるが、他意はない。厳しく突っ込まないよーに。

 現在は随分と様相が変わってしまったが、一昔前、つか遥か昔は、不良少年の有り余るエネルギーのはけ口としてスポーツが利用されていた。そうして、それがそのままプロになってしまった山本八郎みたいな選手もいた。その元祖、かはともかく、頂点は、なんといっても、あの「少年院からスーパースターへ」のベーブ・ルースであろう。昨今、大谷は、何かとルースと比較されることが多いが、この一点においてはルースの比較対象にはなるまい。

 まあ、アメリカはともかく、現在の日本では、山本八やルースのような選手は、今後まず現れないであろう。アメリカでも、厳しいかな。倫理規定がうるさいしね。

 とはいえ、スポーツは本来幼稚なものであるので、「不良少年」や「ワル」とはなかなか縁が切れない。そこで、この「プロスポーツ界における不良少年」について、あれこれ考えてみるのが、今コラムの主旨である。

 本来、このコラムは、清原が覚せい剤問題で揉めていた、つか、留置所送りになっていた時期にでも、タイムリーに書こうと思っていたのであるが、例によって例の如く、ズルズル遅れて、清原は出獄してしまった。残念。いや、出所か。

 でもまあ、清原があんな風になるとは、若い頃は思いもしなかった。どっちかというと、往時は桑田の方が頭がおかしいってイメージだったからね。人は分からぬもんである。まさか、両方、おかしかったとは。「おかしい」は言い過ぎか。怒られちゃうかな。

 でも、桑田や清原、あるいは貴乃花なんか見ていて思うのは、若い頃、15歳前後で有名になる事の恐ろしさである。「人気子役はロクな大人にならない」って、よく云われるけれども、それと同様なものが彼等にもあると思う。同じ未成年でも、18歳ぐらいになると随分と違うだろうが、15歳ぐらいで有名になる、それも全国的な有名人になると、やはり精神に何かしらの影響、それも悪い影響を与えると思う。女性だと、卓球少女の愛ちゃんとか加護ちゃんとかね。海外だと、マイケル・ジャクソンとか。

 15歳ぐらいでエロ本一冊自由に買えなくなったら、そりゃちょっとおかしくもなるよね。私なら、くびれ死ぬ。いや、そんな大事か、エロ本。

 有名人は皆、「出来る事なら、有名になる前に戻りたい。」と決まって言う。誰だったかは忘れたけど、とある有名人が、ちょっと小腹がすいたので、蕎麦屋に入って、カツ丼でも食おうとしても、そこで「梅」は絶対に注文できないと言っていた。どうしても「竹」を頼んで、食いたくもないのに余計なものを色々食べてしまう事になるという。昔、マイケル・ジョーダンが「今、一番したい事は?」という質問に「ウィンドウ・ショッピング」と答えていたのも、同じ意味であろう。

 それも、大人だったら、いろいろと理屈をつけて自分を納得させることもできるが、子供はねえ。精神のバランスを失うのも仕方あるまい。藤井聡太君の未来が不安である。

 まあ、勿論、荒木大輔や辻ちゃんのような事例もあるから、皆が皆、頭がおかしくなるという訳では無いけれど。「よく隠れる者は、よく生きる」、蓋し名言である。

 「青少年の健全な育成」という観点に限れば、若年層のスターは作るべきではないと思う。また、映画やドラマの世界でも、脚本や演出の都合上、やむを得ない面もあろうが、極力子役は使うべきではないと思う。

 さて、いよいよ本題「プロスポーツ界における不良少年について」である。私は、この「プロスポーツ界における不良少年」を4つに分類して、考えてみたいと思う。


 まずは一つ目。

 1) ガチ犯罪者

 まあ、「生まれついての犯罪者」、あるいは「生まれついての犯罪者」と云ったら大袈裟であるが、スポーツのルールとか社会の倫理とかいう以前の問題、すなわち現行法を犯すタイプである。

 まあさすがに、現役のプロスポーツマンで殺人・強盗・放火・誘拐等々の所謂凶悪犯罪を犯す人間はまずいないであろうが、プロスポーツマンに多い犯罪は、なんといっても薬物関係、ドーピングはともかく、麻薬関係であろう。清原みたいに、自身が中毒患者なんていうのはカワイイ方で、誰だったかは忘れたけど、契約金でメキシコから麻薬を密輸密売していたNFL選手がいたと思う。あと、大麻の栽培疑惑と吸引で逮捕された近鉄のデービスとかも、このカテゴリーであろう。

 また、麻薬関係以外だと、昔、巨人に「盗み癖」があるとかいう理由でトレードされたという噂が流れた選手がいた。

 また、珍しい犯罪行為としては、マイケル・ヴィックの闘犬などもある。まあ、これはちょっと珍しい事案ではあろう。

 また、闘犬に近いという意味では、賭博がある。軽度のものもあろうが、プロスポーツマンの場合は、八百長も絡んでくるので、避けるに越した事はない。

 あと、最近のアメリカで取り締まりが厳しいのは、なんといってもドメスティック・バイオレンス、所謂「ⅮV」であるが、これも軽犯罪か重犯罪かは意見の分かれるところであるが、広義の犯罪である事に違いはあるまい。

 あと、日米問わず、最近流行りというか、昔からつうか、人類の誕生以来流行っている「不倫」であるが、現行日本の法律では犯罪ではない(だよね?)ので、ここでは除外する。

 とまあ、犯罪は色々あると思うが、これはさすがに論外、つうかスポーツ以前の問題なので、問答無用である。つか、プロスポーツのオーガニゼーションがどんなに許容、あるいは、選手を守ったところで法律は許さない。つか、守ったら、それはそれで大問題だよ。

 あと、この手のタイプとして、社会の法は犯さないが、単純にスポーツのルールというか、それ以前の決まり事を破るタイプがいる。練習に遅刻するとか、ミーティングをサボるとか、そういうタイプである。具体名を出すと、アイザイア・ライダー。まあ、ライダーの場合は、社会の法も犯してっけどな。これも論外。


 で、二つ目。

 2) 悪いお友達

 この手のタイプは日本では少ないであろうが、アメリカではまだまだ多いであろう。

 所謂、「悪い地域」で「悪い友達」とともに育ち、プロスポーツマンになってからも、その関係が続き、犯罪行為に加担とまでは云えないが、接近してしまうタイプである。

 勿論、プロスポーツマンになった時に、そういう環境と縁を切ってしまえば、それはそれで良いのかもしれないけれど、「人としてどうか」という問題は残ると思う。「自分は上手い具合に大金持ちになったので、君達とはサヨウナラ。」とは、簡単には出来まい。デショーン・ジャクソンが、かつて、そういう事を言っていたと思う。

 そういう訳で、こういう選手はチームなり協会なりが、ある程度援助、ないし大目に見てやる必要はあろう。また、それを社会は許容すると思う。


 で、三つ目。

 3) いつまでたっても不良少年

 このタイプは数少ないのであるが、稀にいる。まあなんつーか、性格こじらせ型というか、精神の成長未成熟型というか、永遠の不良少年というか、なんつーか、あらゆる意味で、めんどくさいタイプである。

 具体名を出した方が分かり易い。ズバリ、江夏豊でありデニス・ロッドマンである。もっと分かり易く云えば、加藤優である。

 この手のタイプの大きな特徴はというと、なんといっても「指導者によって素行・成績が大きく変わる」である。金田・村山・広岡の下での江夏と藤本・野村・大沢の下での江夏(古葉は中間)。ポポビッチの下でのロッドマンとチャック・デイリー、フィル・ジャクソンの下でのロッドマン。最も分かり易いのは、荒谷二中の加藤優と桜中学の加藤優である。

 実も蓋もない言い方をすれば、三者ともに「父親を求めている」訳である。実際、3者ともに父親不在の家庭で育っている。

 「父親を求める」、これはこれで別に良いのだけれど、この「不良少年」をややこしくするのは、その不良少年性故に非常に人気が出る点である。江夏の人気は言うまでもないし、ロッドマンは一時期ジョーダンに迫る人気があった。加藤優は、松浦どころか、金八をも凌ぐ、「金八先生」史上最高の人気者であった。

 しかも、更に問題がややこしくなるのは、この手のタイプは非常に目立つ、そうして、ここぞという時、大活躍するのである。江夏の数々の有名なシーンは今更説明するまでもないであろうし、ロッドマンは、何気に5回優勝している男である。加藤優は、フィクションなので話はちょいと変わるが、彼のシーンは日本ドラマ史上屈指の名シーンであろう。

 この言葉を引用する人は少ないが、かつて野村克也は、プロ野球選手を4つのタイプに分けた。

 1.真面目な優等生:品行方正で成績優秀なタイプ
 2.不真面目な優等生:性格や生活には問題があるものの、成績優秀なタイプ
 3.真面目な劣等生:品行方正だが、成績劣等なタイプ
 4.不真面目な劣等生:性格や生活に問題があり、成績も劣るタイプ

 プロ野球選手の大部分は3番目であり、4番目は論外。最も良いのは、無論1番目であるが、そんなのはごく少数。王ぐらいであろう。古田なんかもココかな。2番目の代表が、なんといっても江夏であり、金田や長嶋も、このカテゴリーであろう。また、大部分のスター選手は、程度の差こそあれ、ココに属するであろう。

 で、監督というのは、この2番目と3番目をいかにうまく活用するか、とりわけ2番目を如何にうまく活用するかが腕の見せ所である。なぜなら、2番目のタイプは、扱い方次第で、場合によっては1番目以上に活躍するからだ。というのが、野村の説なのであるが、ロッドマンや江夏は、まさしくこのタイプの極端な事例である。監督やヘッドコーチの腕の見せ所というか、監督やヘッドコーチの「人間としての器」みたいのが問われるタイプの選手である。もっとも、だからといって、ポポビッチや広岡がフィル・ジャクソンや野村に劣るという訳では無いけどね。

 まあ、なんつーか、木暮君じゃないけど、「大人になれよ、三井寿。」ではある。


 最後に、4つ目

 4) 乱暴者

 今まで挙げた前3者は、どちらかというと、というか、はっきりフィールド外で問題を抱えているタイプであったが、この4番目はフィールド内で問題を抱えているタイプである。

 もちろん、ルールを覚えられないとかサインを覚えられないとか、そういうレベルの問題児ではなく、ルール内、あるいはルールぎりぎりのところでラフプレイをするタイプである。

 具体名を出すと分かり易いので、名前を挙げるが、要するに、元シンシイのバーフェクトである。まあ、ハリキリボーイと云えばハリキリボーイなのであろうが、勢い余って、フレグラント貰ったり、敵選手と揉めたりするタイプである。

 また、バーフェクトとはちょっとタイプは違うかもしれないが、元ピストンズのレインビアなども同タイプであろう。つか、ディマース以外の当時のピストンズ全員である。

 まあ、この手のタイプは、ぎりぎりルールの枠内とも云えなくもないが、ラフプレイはラフプレイであるし、最後の最後、大事なところで、そのラフプレイが徒となって、敗退していくイメージが私にはある。バーフェクトはそれで消えていったし、ピストンズも最終的な勝者だとは、とても言えないしね。

 ルール上許された、あるいはルール上ぎりぎりのプレイなのかもしれないが、ラフプレイは、基本的にやらない方が良いし、古のピストンズみたいに、それを戦略として取り入れても、最終的な勝者にはなれないと思う。ケガする方が痛いのは勿論であるが、ケガさせた方も心に闇が残る。そうして、それは少しづつ心を、そうしてプレイを蝕んでいく。南君みたいにね。

 つかまあ、ルール上ぎりぎりとはいえ、かつて、マイケル・ジョーダンが云っていたように、「アイツらのプレイは審判に訴える事じゃねえ。警察に訴える事だ。」ではある。厳密に云えば、1番目に類するタイプなのかもしれない。


 とまあ、4種の不良少年を書き連ねてみたけれども、プロスポーツというのは人気商売であるので、倫理的にはクリーンであるべきだろう。3番目のタイプは、人気面で貢献するという意見もあろうが、最終的にはややこしい事になる。江夏もロッドマンも更生したとは言い難いしね。

 という訳で、私は「不良少年的」あるいは「ワル的」要素はプロスポーツから排除すべき、また、そうせざる得ないという考えの持ち主なのであるが、そうは言いながら、一方で、ベーブ・ルース的なストーリーラインを懐かしむ気持ちもある。ベーブ・ルースの「二刀流」という側面では、大谷が大きく近づく、あるいは凌駕したが、ベーブ・ルースの「少年院からスーパースターへ」の側面は、大谷は無論の事、いまだ誰も近づいてさえいない。少年院暮らしの悪ガキ達よ、スーパースターを目指してみないか。

 マイク・タイソンが近づいたとも云えなくはないが、結局戻っちゃったからね。チャンチャン。

                                       2021/7/28(水)
プロとアマ  表題は有名な小説の有名な章からのパクリであるが、他意はない。厳しく突っ込まないよーに。

 「プロ」と「アマ」の定義は、一般的には、「プロ」が「技術的に優れている」であり、「アマ」が「技術的に劣っている」である。まあ、それ自体に異論はない。それで、おおよそ間違いはないと思う。語源的にも「MATURE」が「優れている」とか「円熟している」みたいな意味があるから、それに否定辞「A」が付く事で、「優れていない」という事になるのであろう。一方、「プロ」は「プロフェッサー」等と同語源であろう。

 まあ、エティモロジーは、どこまで行ってもポピュラー・エティモロジーなので、この辺でよしておく。

 その「技術的に優れているのがプロ、劣っているのがアマ」という定義自体に反論は無いのであるが、私の定義は少々異なる。私の定義は「他人のために活動するのがプロ、自分のために活動するのがアマ」である。

 具体例を提出した方が分かり易いので、具体例を提出しよう。

 例えば、料理が好きで、技術も知識も豊富であるが、その作った料理を食べるのは自分だけという人がいるとする。一方で、アルバイトニュース、じゃないか、求人サイトかな、いずれにしても、そういうものを見て、とある弁当屋に勤務し、先輩から教わった通りにコロッケを挙げて、弁当に詰めた者がいるとする。

 私の定義だと、前者は「アマ」であり、後者は「プロ」である。おそらく前者の方が、料理の技術的には遥かに優れるであろうが、前者は、あくまで「アマ」であり、技術的に劣る後者は「プロ」である。なぜなら、前者は、あくまで自分のためにしか料理しないのに対し、後者は、やっつけ仕事とはいえ(ではないかな。)、他人のために料理しているからである。

 こう考えると、一般的なプロアマの定義「技術的に優れているのがプロ、劣っているのがアマ」に、この事例は抵触してしまう。私の定義、って程でもないが、こちらの定義「他人のために活動するのがプロ、自分のために活動するのがアマ」の方が、より適切であるし、包括的であろう。

 また、プロアマの定義としては、これらの他に、「その仕事により報酬を授受するのがプロ、授受しないのがアマ」という定義もある。「『他人のための仕事』といっても、それはあくまで報酬目当てなのだから、結局は自分のための仕事だ。」というプラグマティズム的な反論もあろうが、そう考えてしまうと、この世のあらゆる活動、道徳的な活動、宗教的な活動も、結局は自分の為になってしまい、収拾がつかなくなってしまうので、「他人のために活動するのがプロ、自分のために活動するのがアマ」の方が、より簡便だし、実用的であると思う。

 また、自分と他人の境界という意味では、先の料理の話だと、例えば、自分の家族や友人に対して料理をふるまうのは、「アマ」か「プロ」かという問題も発生しようが、「私の家族」「私の友人」という言い方もある通り、「家族」や「友人」は、「自分の一部」あるいは「自分の所有物」と考えるべきなので、それは「アマ」的活動としてよいと思う。

 と言うと、「『私のお客様』みたいな言い方をする人もいるではないか」という反論もあろうが、「客」は、主観と客体という言葉もある通り、あくまで「自分でないもの」という意味が、その言葉「客」の中心概念であるので、「私のお客様」は、あくまで「他人」、「自分ではないもの」であろう。

 また、ボランティア活動みたいな、自分のためだか他人のためだか、よく分からない活動もあろうが、「あらゆる分別には、大概、ヌエ的存在がある。」という事で、お茶を濁しておきたい。「0」とかね。

 「ある活動を自分の嗜好に合わせるのがアマ、他人の嗜好に合わせるのがプロ」と言っても良いかもしれない。そう定義すると、「芸術と商売」という、古くて新しい、そうして新しくて古い問題も簡単に理解できる。要するに、それは「他人の嗜好に合わせるか、自分の嗜好に合わせるか。」という相克になる。

 スポーツの事例を挙げると、あの懐かしい「松井5打席連続敬遠」である。これは、当時盛んに議論されたが、私が、当時思ったのは、「そもそも高校野球はアマチュアなのだから、観客に、その采配を批判する権利はない。」って事である。彼等は、観客のためにプレイしている訳では無いのであるから、敬遠だろうが勝負だろうが、そんなのは当事者の自由である。観客にとやかく言われる筋合いはないであろう。

 「俺たちは、入場料を払っているんだ。金返せ。」みたいな議論もあろうが、その「入場料」は、あくまで主催者や球場に収められるものであって、監督や選手に支払われる事はない。いや、ウラで支払われているかもしれないけどさ。

 もっとも、これがプロなら話は別、というか逆である。観客の声「勝負しろー。」に耳を傾けるべきであろう。少なくとも、その意見や嗜好を親炙せねばなるまい。だって、プロは他人のために活動しているのだから。

 ここで、長嶋茂雄の言葉を引用しよう。長嶋の言葉というと、トンチンカンなものが多いので、その多くは失笑の対象であろうが、素晴らしいものもある。その一つがこれである。「私は優勝できないとか、ホームラン王を獲れないとか、3割打てないとか、それはそれで悔しいけれど、最も悔しい事では無い。私が最も悔しいのは4タコで終わった時である。お客様は私のプレイを見るために貴重なお金と時間を割いているのだから、そういう人たちに対して、4タコでは申し訳が立たない。ファーボールでも何でも良いので、最低1回は塁に立たなければならない。4タコは、取り返しのつかない事をしてしまったように感ずる。」

 細かい措辞は忘れてしまったが、大意はこれで間違いなかった筈である。間違ってたら、ゴメン。それはともかく、この発言に私は唸るほど感動してしまった。「自分の活躍を見るために、観客が来ている。」という自負も素晴らしいが、何より、この「観客を喜ばせるために、プレイする。」という考え方こそ、プロスポーツマンの神髄であろう。さすが、日本初、もしかしたら最後のプロ野球選手である。まさしく「ミスター・プロ野球」である。ところが、これに近い言葉、類する言葉を、日本どころか、世界を含めても、私は他に聞いた事が無い。せいぜい、「俺は大統領より良い仕事をしている。」ぐらいか。

 また、最近というか、ちょい前、大坂なおみが記者会見騒動で揉めたけれども、その時、私が思ったのは、「そんなにインタビューが嫌いなら、アマチュアになっちゃえばよい。それなら、インタビューをする義務はないであろう(いや、あんのか?)。アマチュアだって、オープン大会には出場できるのだから。」である。そもそもは、プロに対してオープンした訳だしね。今は違うのかな。

 インタビューの話が出たので、ちょいと話は変わるが、インタビューについて。

 スポーツの世界に限らず、今の世の中にはインタビュー記事が溢れかえっているが、あんなのはほとんど無意味であると思う。とりわけ、スポーツにおける、試合後のインタビューとかヒーローインタビューである。

 あんなのは、自分に引き寄せて考えればすぐに分かるが、本当の事なんか言う訳がないのである。考えてみて欲しい。自分の上司や同僚について、心の中で思っている本当の事を公に向かって喋る人がいるであろうか。当たり障りのない事を言って、お茶を濁すしかないであろう。更には、事務職や製造職はともかく、企画開発とか営業のような競争にさらされる職業の人たちが、業務上の本当の事など言う訳がない。そんな事を言ったら、それこそ会社に怒られるであろう。怒られるどころか、減俸ものである。

 ましてや、競争社会そのものといって良いスポーツの世界である。本当の事など言う訳がない。例えば、田淵はかつて、ホームラン談話はすべて「シュート」と答えていた時期があって、スポーツ記者たちはそれを「シュートで800」と揶揄していたという。「800」というのは記事のマス数である。すなわち、シュートで800字の記事を書かねばならないという事である。字数は違っているかもしれない。

 では、何故に「シュート」かというと、当時の田淵はシュートを苦手にしていたからである。

 また、ヒーローインタビューでよく、「サイコーで~~す。」とバカのひとつ覚えみたいな返答を繰り返す人がいるが、あれも、うかつに本当の事を言って、痛い目に合うのを恐れているからである。決まり文句を連呼するのが、最も防衛的であろう。決して、バカだからではない。

 事程左様に、インタビューなんてものは、ほとんど無意味なものである。インタビューが必要なのは、強いて挙げれば、自身の考えてきたテーマの最終的な裏付け、あるいは証拠のひとつとして、当事者や関係者の証言が必要な時だけであろう。自分が何も考えていないテーマでインタビューしても何の意味もない。誤解して終わりである。下手すりゃ、誤解すらできない。

 かつて、プロ棋士の渡辺明が、「記者の質問にはできる限り丁寧に答えるけれど、ただ答えたところで、ほとんど意味はないと思う。その指し手の意味は、プロ棋士、それもトップ棋士と、その戦法の専門家の十数人位しか分からないから。」というような事を語っていたのは、そういう意味である。

 では何故、そのような無意味なインタビューが、プロスポーツの世界、いや、あらゆる世界の取材で横行しているかと云えば、それは「締め切り」があるからである。記者たちは、今自分の目の前で行われたゲームの構造や意味は全く分からないけれども、とにかく「締め切り」まで、3時間後4時間後までに、800字だか1200字だかの記事を書きあげなければならないのである。となれば、インタビューをして、それをそっくり書き写して、マス目を埋めるしか手は無いだろう。それがインタビューの横行する唯一の理由である。

 また、日本の出版界には、「締め切り」の他に「再販制」がある。これもインタビューに拍車をかけるであろう。日本の雑誌に、やたらに「対談」が多いのも全く同様の理由である。他に理由はない。そのくせ、出版社側に都合の悪いことは「編集」したりする。

 本来、文章を書く事、何らかの発言をする事に、「締め切り」や「再販制」はない。自分に言いたい事があり、言いたい事がまとまって、初めて公表公刊すべきである。お金のために、それをしたり、急いだりするのは悪い事である。

 出版事業に限らず、今の世の中はありとあらゆること、自分の意見や自分の考え、自分の時間、自分の自由、自分のセックス、本当にありとあらゆるものを換金する。それは悪い習慣である。「人生に何の目的もない人間は、お金そのものを集める事に熱中する。」「その人間の価値は、どれだけお金を集めたかではなく、何にお金を使ったか、である。」「人間の価値は、自由時間に何をするかで決まる。」。あるいは「私は贅沢に生きていたい。」

 そうした記事を書くためだけのインタビューが横行した挙句、「好きな食べ物は何ですか。」。また、ナンシー関に「あなたはテレビをよく見ますか。」と電話取材した新聞記者がいたらしい。

 でも、こういうインタビューをした人たちは受験戦争の勝者なのである。ペーパーテストで人を選ぶ事の恐ろしさであろう。

 過去100年以上にわたって、世界中で、ありとあらゆるスポーツ関係の本が出版されてきたであろうが、その中で最も価値のある本は、あそらく「ベースボール・アブストラクト」であろう。なにしろ、この本は、実際のスポーツに大きな影響を与えた、ほとんど唯一の本なのであるから。でも、残念ながら、私は未読。
 ところが、その著者ビル・ジェームズは、その後はともかく、当時は野球関係者へのインタビューなどした事は無かったであろう。知己すらいなかった筈である(いや、いたかもしれんけど。)。

 かつて、ナンシー関は、「私はテレビ評論をしているから、できる限りテレビには出ないし、芸能人とも友人にならないようにしている。」というような事を言っていたけれども、至言である。日本のプロ野球解説者、そうして世界中のスポーツ解説者の皆さん。選手やコーチとの人間関係は、すべて断ち切ってみたら。スプリングトレーニングでの挨拶回りなど、もってのほかであろう。「○○選手」「○○投手」なんて言っているうちは、永遠にダメである。

 閑話休題。プロとアマについて、思いつくままに。

 かつて、金子達仁が、雑誌の企画か何かで、高校野球の取材をした。その時、彼が最も感動したのは何かというと、高校球児のインタビュー態度の良さだというのである。インタビュー前には「お願いします。」、インタビュー後には「有難うございました。」、しかも深々とお辞儀をする。それも、敗戦した後ででも、である。
 こんなのは、高校野球に慣れた人には当然の事のように思うが、かつて彼が仕事にしていた高校サッカーにおいては、全く事情が異なっていたらしい。高校サッカーの選手たちは、高校球児たちとはまるで異なり、如何にもめんどくさそうにインタビューに答え、下手するとタメ語の選手もいたという。もっとも、これは80年代90年代の話なので、今はどうか知らない。

 と、このように書くと、高校サッカー選手は、いかにも態度が悪いように映るが、そんな事はない。これは理由は簡単で、高校球児は、みな多かれ少なかれ、あるいは意識レベル無意識レベルでプロを意識しているからである(変な表現)。それゆえ、インタビューに対して、あたかもプロのように、真摯に受け答えしていたのである。そういう慣習が自然に出来ていったのだろう。
 一方、高校サッカー選手は、当時はプロを意識していないであろうから、インタビューに真摯に対応する慣習というか、必要が全く無かったのである。

 先に私は、「高校野球はアマチュアだ。」と書いたけれども、それはあくまで表面上で、一部の選手、甲子園に出場するような選手は、実質的にはプロ、アマの皮をかぶったプロ、プロ予備軍と言っても良いであろう。そういった意味では、松井への5打席連続敬遠への非難も、正当化される。もっとも、公式には、上述した理由で、否定されるべきだろうけど。

 また、NCAAのフットボール選手、バスケットボール選手、一部のオリンピック選手なども、「アマの皮をかぶったプロ」といってよかろう。

 さて、アマチュア・スポーツの祭典と云えばオリンピックである。つい先日、東京オリンピック2020が閉会したが、これは全くの偶然。前回の記事「不良少年とスポーツマン」は全然タイムリーでなかったけれど、これは全く偶然にタイムリー。信じてください。記事の大要は10年くらい前に出来上がってます。東京オリンピック2020に乗じた訳ではありません。いや、信じてもらえなくてもいいけどさ。

 タイムリー問題はともかくとして、アマチュア・スポーツの祭典オリンピックにプロスポーツマンが出場した走りは、それ以前もいたかもしれないが、なんといっても、あのドリームチームであろう。かれこれ30年近く前の話である。

 私は別に、「アマチュア・スポーツの祭典であるオリンピックにプロスポーツマンは出るな!!!」という程、カチンカチンのオールドスクールではないけれど、オリンピックに出場しているプロスポーツマンに、どこか「場違いな感じ」、「借りてきた猫的な感じ」は受けている。

 なぜなら、先に申した通り、「他人のために活動するのがプロ、自分のために活動するのがアマ」であるからである。確かに、業務内容は普段と全く同じであろうが、その目的が、「他人のため」と「自分のため」、全く逆であるからである。「『母国のため』にプレイしているのだから、『他人のため』ではないか。」と反論する向きもあろうが、ナショナリズムは、ここでは措く。それに、「ナショナリズム」は、結局は、というか究極的な「自分のため」であろう。

 「ナショナリズム」はともかくとして、ちょっと、想像してみて欲しい。例えば、普段30万円の月給で働いているとする。それが、来月は月給3万円、しかも失敗したら、国中から袋叩きという条件で働いて欲しいと云われ、しかも、その「声の主」が実際のところ、誰かは分からない。あなたは、そんな理不尽を飲むだろうか。
 ところが、これを飲んでいるのがオリンピックに出場するプロスポーツマンなのである。不調だとかケガだとかを理由に、オリンピックを辞退したがるプロスポーツマンが多いのは、これが理由である。世界一ワガママな団体であるメジャーリーグ選手会が、「オリンピックに出せ出せ」云わないのも、これが理由である。いや、言ってんの?。オーナー連が反対してんの?。

 プロスポーツマンのオリンピック出場の報酬がどうなっているのかは、よく分からんが、報酬の多寡はともかく、モチベーションを保ちづらい、その方向性が分かりづらいのが、プロスポーツマンのオリンピック出場だと思う。「借りてきた猫」感は、そこから漂っているのだと思う。

 で、ちょっと話は逸れるが、先に少しく触れた「オリンピックのナショナリズム」について。私はスポーツの大会において、「ナショナリズム」は不要だと思う。実際、プロスポーツの世界に「ナショナリズム」はない。国籍、あるいは出身地別にチーム編成をしなければならないなんて、完全なナンセンスである。仮に、NFLでそれを実施したら、フロリダ州とかカルフォルニア州だとかオハイオ州だとかのチームは良いかもしれないが、我らがコルツなどは、それこそしおしおだろう。まあ、「ペイトリオッツが弱体化するから、良い」という説も無くはないが。

 また、日本のプロ野球で同様の事をしたら、ファイターズはいきなり弱体化するだろうし、関東縛りならともかく、県縛りだと、ライオンズやベイスターズは一気に苦しくなるだろう。マーリンズは意外に頑張るかな。

 というか、高校野球やNCAAのような、所謂「アマチュア」でさえ、出身地縛りはしていない。

 「出身地縛り」というのは、もしかしたら多少の商業的成功をもたらすかもしれないが、プロスポーツの最高原理であろう「最高レベルのゲームを提供する」に大きく反するとまでは云わないが、かなり難しくする事にはなると思う。

 一方、オリンピックだって、「アマチュアスポーツにおける、最高レベルのゲームを提供する」というのが最高原理であろうから(いや、違うのか。)、国籍別にチーム編成する、あるいはプレイヤーを振り分けるというのは、この最高原理に反する、あるいは損ねる事になろう。
 
 例えば、よく知られているように、「アメリカの陸上国内予選の方がオリンピックよりレベルが高い」とか、「中国の卓球国内予選の方がオリンピックより厳しい」などである。中国に至っては、それを理由に国籍を変える者まで現れているのだから、何をか況やである。

 オリンピックは、国籍抜きに、単純にそれぞれの競技の世界のトップ30だかトップ50だかを集めて、開催すべきであろう。開閉会式も競技別に入退場すべきだと思う。猫ひろしもカンボジア人にならずに済んだろう。

 オリンピックに「ナショナリズム」なんて下等な感情を持ち込んだのは、当初の理念だったのか、それともヒトラーあたりのアイデアだったのかは知らないけれど、スポーツ的にはナンセンスな事である。

 もっとも、100年前ぐらいだと、国別にする理由はあるにはあった。交通網通信網が、今とは比較にならない程、不整備だったからである。国別、出身地別に代表を決めるのが最も自然、というか、それしか方法はなかったと思う。日本の高校野球代表が出身地別なのも、この名残りである。でも、現在は、これだけ交通網通信網が発達しているのだから、各競技ごとのトップ30トップ50を選出するのは、それほど難しい事ではあるまい。

 というか、私は子供の頃から、不思議だったのであるが、国籍が同じというだけで、どうして、その人の勝利を、あたかも自分が勝ったかのように喜べるのだろうか。いや、別に、お前も日本も勝っていないよ。勝ったのは、あくまで日本国籍の某選手だよ。

 プレイヤーを好きになる理由として、最も多いのは、「そのプレイスタイルが好き」であろう。それに続くものとして、「ルックス」とか「性格」が挙げられるだろう。また、スポーツチームを好きになる理由として、「身近だから」あるいは「自治体が同じだから」もあろうが、それは絶対ではない。大阪育ち大阪在住の巨人ファンなんて山ほどいる。関東在住の阪神ファンも同様だろう。

 しかも、「プレイヤー」や「チーム」を好きになる大前提として、その「ゲーム」が好きというのがあると思うが、その「ゲーム」の戦略戦術どころかルールも知らないのに、同じ国籍の人を応援し、勝てば我が事のように喜び、負けると、その選手を批判する。しかも理由も分からずに、である。私には理解できない心理である。

 とは云うものの、そういう「ナショナリズム」に訴えるしか、オリンピックの成功、少なくとも興業的成功はないと考える向きもあるのかもしれない。でも、私はそうは思わない。オリンピック、すなわちアマチュアスポーツには、アマチュアスポーツであるが故の優位性があると思うからである。

 それは、すなわち、アマチュアの方がプロより高品質の試合を提供できるからである。「いや、そんなバカな。アマよりプロの方がレベルが高い。」という反論も多かろう。

 では、野球で説明してみる。

 プロ野球では、日米、あるいは、もしかしたら違うかもしれないけど、台湾韓国においても、チーム10番手11番手くらいのピッチャーまでも登板する。何故か。試合数が多いからである。シーズンで100を超える試合数を、一人で賄う事はとても出来ない。3番手4番手どころか10番手11番手のピッチャーまで出場させざるを得ない。すなわち、「ベストメンバーでのゲームを毎回提供出来ない」という事である。

 これは仕方のない事であろう。プロスポーツ団体がお金を稼ぐ方法は、結局のところ、二つしかない。ひとつは「ゲームの商業的価値を高める」、もうひとつは「ゲーム数を増やす」である。前者も当然配慮すべきであるし、後者も限界ギリギリまで増やさざる得ない。実際、ありとあらゆるプロスポーツは常に試合数を増やそうとしている。今季のNFLも、そのひとつである。

 ただ、これがアマチュア、それも4年に一度のオリンピックだったらどうだろう。4年に一度、10試合程度ゲームをすればよいだけなのである。ピッチャー1人は無理にしても、3人ぐらいで事足りるであろう。実際、高校野球は、そのくらいの数である。
 
 また、無理をすれば、あるいは日程次第では、一人のピッチャーが、全10試合全イニング投げる事も可能であろう。実際、高校野球では、いまはともかく、かつてはあった。

 と、このように書くと、「ケガがケガが」とバカの一つ覚えみたいに心配する輩がいるが、4年に一度である。生涯1度2度のチャンスである。ケガしたって、何の問題もないであろう。アマチュアだから、金銭的不安もない。命にかかわる怪我ならともかく、野球、それもピッチャーの怪我で命にかかわる事はまずない。多少、日常生活に支障をきたすぐらいであろう。それと世界一、あるいは世界一をかけた戦い、どちらが価値が高いかは明々白々である。

 また、試合のレベルという意味では、試合時刻の問題もあると思う。通常、プロのゲームは、当たり前の事ながら、午後か夜である。でも、「人間というのは、目覚めた直後が最も頭が冴えている。」とも云われている。だとしたら、午前中、それも起きてすぐ、午前7時とか午前8時とかが、試合開始時刻的にはベストコンディションなのではないだろうか。

 運動能力的に、どの時間帯がベストかは微妙かもしれないが、頭が冴えるという意味では、朝の方がベストなのかもしれない。
 で、いつも思うのであるが、プロの将棋は終盤の詰むや詰まざるやのところで、夜、それも深夜に及ぶことが多々あるけれど、あの場面こそ、「封じ手」を用いて、一晩寝て、朝、すっきりとした頭で指した方が良いと思うのであるが、どうだろう。

 まあ、「人間というのは、目覚めた直後が最も頭が冴えている。」というのは、あくまで仮説なので、なんとも言い難いが、試合開始時刻に関しては、アマチュアなら商業的制約を受ける事はない。最も、ベストパフォーマンスの期待できる時刻に開始すれば良いのである。また、天候不良なら、さっさと中止・順延すれば良いのである。

 で、ちょっと、話は逸れるが、大谷について。大谷は今、メジャーリーグで活躍しているけれども、その大谷といえども、かつての長嶋や王のように、日本の子供たちに夢を与える事は出来ない。何故なら、多くの日本の子供たちは、大谷のプレイをリアルタイムでテレビ観戦できないからである。現地観戦はもっと厳しかろう。ほぼ毎晩、観戦させることのできた長嶋や王のように、深くはともかく、広くは夢を与えられない。日本のスポーツのスターが海外に流失する最大の問題点だと思う。

 閑話休題。プロとアマの問題に戻そう。

 プロとアマのゲームの質の問題が最も如実に現れるのは、なんといっても格闘技である。まあ、「格闘技はスポーツか否か。」という問題もあろうが、それはひとまず措く。

 例えば、大相撲であるが、人も良く知るように、八百長が横行している。まあ、賭博が介在している訳では無いので、厳密に云えば「八百長」ではなく、プロレスでいう「FIX」であろうが、ここでは便宜上、つうか伝統に則って「八百長」を使う。

 大相撲で八百長が横行する理由は一つしかない。試合数、すなわち取組が多過ぎるからである。年間6場所、計90取組、一勝負が非常に短時間の競技とはいえ、あくまで格闘技である。「取組過多」と言って良いであろう。

 そこで、「ケガ防止」と「スター力士の保護」のため、八百長が横行する。実際どうだったかまでは知らないが、ガチンコ力士といわれた貴乃花が30歳前で大ケガ、結局30歳での引退につながったのは、これの裏からの証明であろう。また、八百長調整に長けている(と云われていた)千代の富士が、ケガが多い割には36歳で引退と長命だったのも、これはまた一つの裏からの証明であろう。

 ちなみに、ちょっと話が逸れるが、貴乃花のケガによる長期欠場に苦言を呈していた横綱審議委員会のメンバーがいたが、この人達に一体なんの「見識」があるのだろう。相撲もスポーツも何にも知らない。彼等は歴代横綱の名をスラスラすべて云えるのだろうか、一度抜き打ちテストをしてみたらいい。まあ、彼等にとっては「横綱審議委員会」は単なる「名誉職」なのかもしれないけれど。

 また、同じことは日本のプロ野球解説者にも言える。彼等はセ・パ両リーグの優勝チームを昭和25年以降すべて云えるのだろうか。抜き打ちテストをしてみたら面白いと思う。ちなみに、私は、2000年くらいまでだったら、スラスラ云える。むしろ21世紀に入ると、怪しい。まあ、あんまりプロ野球を観なくなったというのもあるが、プレイオフ制度が、なかなかの引っかけ問題なのである。年ごとにルールも変わったりするしね。

 閑話休題。大相撲に話を戻すが、オリンピックはともかくとして、大相撲が江戸時代のように「一年を七日で暮らす」だったら、八百長の横行は無いだろう。それこそ、賭博の介在する本物の「八百長」以外は、激減する。ちなみに、「1年を○日で暮らす」は諸説あるので、厳しく突っ込まないよーに。私は「七日」で覚えていたのだが…。

 また、プロの格闘技として代表的なものにボクシングがあるが、こちらも格闘技独特のプロアマ問題に懊悩している。ボクシングの場合、多くのプロスポーツとは逆に、あまりに危険なスポーツであるため、試合数が少なすぎて、飯が食えないのである。資格的には「プロ」だけど、経済的には「アマ」なのである。普通のプロボクサーは勿論、日本チャンピオンクラスでさえ、一部の人気ボクサーを除いては、ボクシングだけで飯を食えないのが現状だろう。手に職を持っているプロボクサーは多い。油断していると、世界チャンピオンですら、つましい生活を強いられるかもしれない。実際、今現在のヘビー級チャンピオンの名前を私は知らないしね。まあ、ボクシングの場合は「チャンピオン」が多過ぎるという問題もあるだろうけど。

 で、なんで、プロボクサーがボクシングで飯を食えないのかというと、先にも書いたが、理由は一つ、危険すぎて、飯が食えるほどに試合数を増やせないからである。今は、年間3試合4試合程度であろうか。その辺が限界だと思う。大昔、ピストン堀口が年間100試合こなして、パンチドランカーになっちゃったなんて話があるが、その数の真偽はともかく、年間100試合ぐらいはこなさないと飯は喰えないと思う。いや、それでも厳しいか。

 しかも、ボクシングに限らず、格闘技の場合は、観客数の上限が、せいぜい2000人である。それ以上増やしてしまうと、観客は試合を物理的に見れなくなってしまう。まあ、人気カードはン万人の会場で開催するけどね。
 それはともかく、年間3,4試合で、生活しようとすると、1試合で100万円から200万円は稼がなくてはならない。諸経費を入れると、チケット代は最低でも2000円の値を付けなければならなくなる。2000人が2000円を払って観戦する価値があると判断するボクシングを出来るボクサーが世界中に何人いるのだろう。2000円あると、そこそこ吞めるよ。

 ちなみに、私はプロボクシング廃止論者である。上記の理由もあるし、なにより、日本のプロボクシング界でも、毎年一人くらいは死者が出ているからである。スポーツマンの怪我というと、やたらにピッチャーの肩肘ばかり問題にするが、こちらの方が、事は深刻だと思う。まして、高校球児の肩肘なんて、心配してやる必要はどこにもない。だって、アマチュアなんだから。どこまでいったって、自分の責任である。だって、自分のためにしているのだから。

 プロボクシングに関して、反対運動するほど、「廃止」に積極的ではないけれど、賛否を問う投票用紙が回ってきたら、「廃止票」を投じるだろう。あまりに危険なスポーツだと思う。だって、他の全てのスポーツが厳重に警戒している箇所、すなわち頭と内臓を集中的に攻めるスポーツなのだから。実も蓋もない言い方をすれば、要するに、如何に相手を「脳震盪」させるかというスポーツである。NFLが、あれほど「脳震盪」を厳重に警戒しているにもかかわらず、である。それをショーにするのは、それこそ人道的に問題があると思う。

 同じく命の危険度の高いスポーツとして、カーレースやバイクレースがあるけれども、カーレースやバイクレースの場合は、ドライバーやライダーを含めて、関係者がルールを守り、ミスをしなければ、命の危険はない。命の危険があるのは、ルールを破ったり、ミスをした時である。
 ところが、ボクシングの場合は、関係者やボクサー全てが、ルールを厳守し、ミスをしなくても、死者の出る場合がある。極端な言い方をすれば、「ボクシングの技術」というのは、すなわち「人殺しの技術」である。「百発百中で人を殺せるボクサー」は、すなわち「最強のボクサー」である。ボクシングのルールや倫理は、それを咎める事が出来ない。

 もし、ボクシングというスポーツを存続させるのなら、それはやっぱり所謂「アマチュア」しかないと思う。オリンピックを最高の大会にすべきであろう。そうして、4オンスでって、それはともかく、4年に一度なら、かなりの安全が担保出来る筈である。もっとも、「飯が食えない」という意味では、現状のプロボクサーは「アマチュア」といっても良いかもしれないが。

 そうして、格闘技におけるプロアマ問題が最も先鋭的になるのは、なんといっても「レスリング」である。「プロレス」と「アマレス」である。

 まあ、この二つの競技が同じ「レスリング」かという問題はともかくとして、一般に「アマチュアレスラー」と「プロレスラー」、どちらの方が「レスリング」の技量が高い、すなわち「強い」かと云えば、当然「アマチュアレスラー」であろう。これは、私が冒頭に提出したプロアマの一般的な定義「技術的に優れているのがプロ、劣っているのがアマ」の完全な反証である。

 ところが、「プロレスラー」より強い「アマチュアレスラー」が「プロレス」のリングに立った時、何が出来るかと云えば、何も出来ない。醜態を晒すだけである。無論、一銭も稼げない。この相克を、誰よりも具現化していたのは長州力だったと思う。あの長髪とリングネームに、吉田光雄の懊悩を見たのは、私だけではあるまい。まさしく、「芸術か商売か」である。

 プロ格闘技として、より芸術、技量の向上の方に傾いたのがボクシング、より商売、他人を喜ばす方に傾いたのがプロレスという事になるのかもしれない。まあ、「他人を喜ばす」ためには、「喜ばす」なりの「技量」はあるけどさ。

 で、ちょっと話は変わるが、私は「大相撲」というのは「プロ格闘技」として、非常によく出来たルールだと思っている。

 まず、「寝技」を、思い切って捨てた事が良かったと思う。「寝技」が「格闘技」に必要か不要かはともかくとして、っていうか、おそらく必要だろうけど、「プロ格闘技」には完全に不要だと思う。

 私は、かつて「世界のスポーツ」的な番組で、トルコだかウズベキスタンだかのレスリングを観た事がある。その「レスリング」は、「寝技」重視、つうか「寝技」のみで、敵をひっくり返した方が勝ちみたいなルールだったと思うが、そのビジュアルはというと、2メートル近い大男が、柔道で謂うところの「横四方固」の体制で互いの股間をモゾモゾしているのである。完全にホモビデオ。いや、見た事ないけどさ。しかも、それが、場合によっては7時間くらい続くというのである。

 時間は正確に記憶していないので、もしかしたら違うかもしれないが、とにかく長時間、時間単位レベルで大男がお互いの股間をモゾモゾしあう競技なのである。誰が、そんなもん、金払って見るかっての。いや、見てる人いるかもしれんけどさ。

 また、かつてUWFで「関節の取り合い」みたいなプロレスをしていたけれども、そんなのは「自称マニア」以外は興味を持たないだろう。

 「プロ格闘技」である大相撲から「寝技」を排したのは、はっきり正解である。

 そうして、もうひとつ「フィールド外=負け」というルールである。格闘技に限らず、どんなスポーツでもフィールドは決まっているであろうが、「フィールド外=負け」は、私の知る限り「大相撲」だけだし、名案だったと思う。

 なぜなら、このルールのために、「後ろに下がれなくなる」からである。「後ろに下がれなくなる」と、必然前進するしかなくなり、「プロ格闘技の華」といっていい「投げ技」が成立するからである。
 「投げ技」は、多少の例外はあると思うが、大概は「後ろに逃げられたり」「後ろに重心を掛けられたり」すると、まず掛からなくなってしまう。ところが、「後ろに逃げる」敵は「押し出す」あるいは「押し倒し」てしまえるのが「大相撲」のルールである。

 すなわち、向かってくる相手に対しては「投げ」、逃げる相手に対しては「押す」、これが「大相撲」である。逆に云えば、「向かう」と「逃げる」という「二律背反」で駆け引きをするのが、「大相撲」の醍醐味、あるいは本質といっても良いであろう。この「ルール」というか、「本質」があるために、柔道やボクシングでママ見られる「ポイントを獲ったら、逃げまくる」という必勝法とまではいわないが、強力かつ、観客にとっては「極めてツマラナイ」戦法が、「大相撲」では無効となる。「逃げる」相手を「押し出す」ないし「押し倒す」のは容易い。

 ちなみに、この「二律背反」というのは、多くの「スポーツ」というか「ゲーム」の醍醐味であり、本質であると思う。この「二律背反」が質量ともに豊富だと「ゲーム」は面白くなる。

 例えば、野球においては、「ボールを強く叩こうとすれば、当たらなくなり、当てようとすれば、ボールは遠くへ飛ばなくなる。」。あるいは、「ボールを速く投げようとすればコントロールが悪くなり、コントロールを良くしようとすれば、ボールは遅くなる。」。
 フットボールならば、「速ければ軽くなり、重ければ遅くなる。」
 また、将棋ならば、「強い駒は効果的であるが、奪われると痛い。」とか「守りを厚くすると、攻めが薄くなり、攻めを厚くすると、守りが薄くなる。」
 また、麻雀ならば、「上がり易い手は得点が低く、上がりにくい手は得点が高い」などである。

 この手の「二律背反」を高いレベルで両立できるのがスーパースターと云えるのかもしれない。マイケル・ジョーダンの「速くて、高くて、強くて、上手い」なんていうのは、その一例だろう。

 また、「とにかく速ければいい」「とにかく重ければいい」みたいな「二律背反性」の低い競技もあるが、それは、どちらかというと、「ゲーム」というよりは「レース」と云うべき競技であろう。この手の競技が、「賭博」を介在させないと「プロスポーツ」として成立しにくいのは、その「二律背反性」の低さ、「ゲーム性」の低さ故だと思う。

 とまあ、随分脱線してしまったが、競技の質という点では、プロよりもむしろアマの方に利がある場合も多いと思う。上述したように、レスリングなんていうのは、完全にアマチュアの方が上だし、多くの格闘技も同様だろう。また、「レース系」のスポーツは、先述したように、「二律背反性」の低さから、もともと、プロが成立しにくい。

 そうして、野球やフットボールのような所謂「プロ」の盛んなスポーツにおいても、本当にギリギリ競技性を高めるならば、アマチュア的、あるいはオリンピック的なファーマットの方が適正であろう。また、最近は、例のコロナの影響で、無観客の試合が多いけれども、ホームフィールドアドバンテージを考量すれば、むしろ無観客で開催すべきであろう。

 あと、テニスやゴルフのような、「アマ」と「プロ」の線引きが明確でない競技、「アマ」と「プロ」が同じ大会で競う事もある競技については、ややこしそうなので、今回は検討しない。

 また、体操やフィギュアスケートのような「競技」というよりは「演技」に近いスポーツもあるが、これらはひとくくりに「ダンス」と見て良いと思う。こちらも、「アマプロ」の境目はあいまいだけれども、最終的にはプロダンサーの方が技量的には優れているといって良いと思う。これらは、はっきり「技術的に優れているのがプロ、劣っているのがアマ」で良いと思う。実際、フィギュアスケーターは、オリンピック終了後、プロに転向する人も多い。また、人を魅了するという意味において、マイケル・ジャクソン以上のダンサーはおるまい。

 そういう訳で、冒頭に述べたアマプロの一般的な定義「技術的に優れているのがプロ、劣っているのがアマ」というのは、スポーツの世界では、必ずしも当てはまらないと思う。技術の追求、競技の高度化公平性という観点で見れば、むしろ「アマ」の方が優れているかもしれない。所謂「芸術か商売か」である。

 とは云うもの、「生活の安定」、「そこから生まれる練習量」、という観点では、やはりプロの方が優れているとも云えるであろう。あと、「ゲームの公平性」という観点では「無観客」は推奨されるべきであるが、「技量の向上」という観点では、やはり「大観衆」にかなうものは無いだろう。「人前でプレイをする」、これより「技量の向上」に役立つものはあるまい。

 とまあ、長々書いてきて、どっちつかずの結論になってしまったけれど、それはいつもの事って事で。チャンチャン。

                         お盆休みが腰痛で台無し。2021/8/16(月)

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